「翔べ! 鉄平」 3
鉄平は自転車屋ではほとんどの修理を任されるようになっていたが、油に塗れて小さな機械をいじっていると、もっと大きな機械を扱ってみたいという自信と欲がわいて来た。傘で飛ぶなどと言う夢を捨てることで大人になれるような気がした。
また啓二に再会して以来、軍隊のことが気にかかっていた。また銀平も兵隊に取られた様に、いずれ自分も行くことになる。町を行き交う軍用車両を見ると、軍隊に行けば自動車に関係する仕事につけるかも知れないとも考えてみる。それは啓二と対等の大人になれることである。あわよくば飛行機に乗れるかも、と夢を見たりもしていた。飛行機に乗って空を飛ぶことは、啓二の考えに屈することになるのだが、あの白い制服が現実のように思えるようになってきていた。
そして自転車屋の給金の低さにも多少の不満があった。鉄平の貰う給金ではとうてい独立など考えることすら出来ない。その前に兵役に行くことになる。それは啓二に会って以来、そんな夢と現実が交錯して、焦りとして鉄平を悩ませた。
鉄平は電柱に止まって鳴く蝉を思い出した。タールの塗られたこげ茶色の電柱に止まって鳴く蝉は何処と無く滑稽に感じるものである。なぜ樹液の吸える木に止まらず、電柱に止まって鳴き続けるのか不思議である。勘違いにしても甚だしく、本気で鳴いているとなると馬鹿に見える。高らかに笑う啓二の白い制服の背中が思い出される。そんな嫉妬は自分の未熟さの裏返しである。
ーーこのままじゃ、電柱に止まって鳴く蝉じゃ。
一九四〇年、昭和十五年、鉄平は十七歳になると志願して徴兵検査を受けることにした。機械を扱う任務に就けるかもしれないという希望を持ち、さらに海軍を志願すれば家族に扶助金も出るので両親や兄たちにも自慢になる。家族の中でいつまでも子ども扱いされるような肩身の狭い思いはしなくてすむ。
「兵隊なんぞ、進んでいくものでねぇ」
と、啓二をほめていた旦那は鉄平の前で兵隊に行くことに異を唱える。
「おれ、もっと大きな機械、扱ってみてぇんだ」
「自転車じゃ不満か」
「そりゃ、軍艦と比べりゃな」
鉄平は自転車屋を馬鹿にしてしまったのかも知れないと反省し誤魔化した。
「ふん」
鉄平の言葉に旦那は鼻で馬鹿にするように笑ったが、それ以上は止めなかった。実家の両親も何れは行かねばならないと覚悟はしていたが、志願して行くとは思わなかった。志願すれば兵役年数は長くなるからである。
鉄平は徴兵検査で甲種と診断され、海軍の選抜試験に受かると自分も満更馬鹿ではないと思った。数週間後に訓練召集の令状が届き、横須賀の海兵団に入兵すると、そこで新兵訓練を受けることになった。
掃除洗濯、気を付け、右向け右、左、回れ右、敬礼の仕方から歩き方、小銃の撃ち方から手入れまで、軍隊で必要な生活の基本を習う。その新兵訓練では精神注入棒での尻叩きがあったが、棒自体の表面は平らで滑らかで、凸凹の地面の小石の上に尻餅を着くほどには痛くない。
ただ回数が重なると腫れてくる。それが嫌でびくびくしていると、失敗を重ねて古参の者に目をつけられ、ますます腫れあがる。鉄平にはそれが軍人精神を注入するどころか、萎縮した兵隊を作っているように思えた。鉄平は学校での成績は悪かったが、この新兵教育でもやはり成績が良かった訳ではなかった。それなのにそれほど多くのしごきは受けることはなく、かといって可愛がられるほどではなかった。多分馬鹿と思われていたからに違いない。
ある日上等兵に呼ばれた。
「おい、カラス!」
普段は烏山と言う名前からカラスと呼ばれることが多かった。
「はい!」
と答えると、
「お前はカラスか?」
と怒鳴られる。上等兵は嫌味な目付きに薄笑いを含ませて睨む。『解っているな』と暗黙の了解を押し付ける。鉄平は反応に困った。
「じゃぁ、カラスになれ! カァカァとやってみろ」
それは下の者に屈辱を与え従順さを植えつけていくしごきである。鉄平はその上等兵を驚かせてみようと思った。
「はい!」
鉄平はそうわざと元気に答えて三階の窓枠に飛び乗ると、
「カァカァ!」
と両腕をばたつかせて大きく叫びながら窓から飛び出したのである。
窓の外に消えていく鉄平を見た上等兵はとっさに自殺者を出してしまったと焦り、引きつった顔で階段を駆け下り建物の下に飛び出した。周囲で見守っていた者たちもそれを追いかけた。鉄平は落ちた瞬間膝を曲げて転び、体を転がして衝撃を回避し着地し擦り傷一つ負っていなかった。
立ち上がった鉄平は腕を上下させながらさらにカァカァと叫び続ける。
「もういい! 止めろ!」
半べそを画いている上等兵を囲む者たちは薄笑いを隠さない。
それ以来、体罰を与えると烏山は馬鹿なことをするかもしれない、と避けられたのであった。
初等訓練も終わろうとするある日、分隊長の呼び出しを受けた。大尉の執務室に入り敬礼をする。机に向かう分隊長の左後ろに見慣れぬ髭を生やした少尉が立っていた。分隊長の大尉は熊を思わせる巨漢であったのでその後ろの少尉が妙に小さく見えた。その鼻の下の左右に長く伸びた細い髭は、まだ若さの伺える少尉の顔にはあまり似合っていない。分隊長が鉄平に聞いてきた。
「烏山四等兵。どこか希望する部隊はあるか?」
「はぁ、ハヤブサに乗りたいです」
当時ハヤブサは戦闘機の代名詞であった。
「あれは陸軍だろうが!」
鉄平が質問に答えると分隊長の大尉が怒鳴ったが、それを黙って立って伺う少尉の髭が揺れた。鉄平は多少訛りの混ざる言葉であどけない笑顔を見せていたが、そこにどこか猿のような滑稽さも伺えた。
分隊長はそんな鉄平の顔を見て鼻で笑いながらも呆れた顔で続ける。
「あぁ? 飛行機乗りになりたいというか?」 「あ、いえ、とにかく空が飛べればと思いまして。小さい頃からの夢でした」 「まぁ、お前の成績じゃ無理だな。飛行兵どころか、この海兵団で四等兵のままだな」
大尉は面倒くさそうに書類を捲り飛ばし、次の新兵を呼ぼうとすると、傍にいた少尉が割って入ってきた。 「君は、空を飛びたいかね」 と少尉が聞くと鉄平は身を前に傾けて答える。 「は、はい。小さい頃から何度も練習しました!」 すると大尉は嫌味な顔つきになって言う。
「練習して空を飛べるなら、飛行機は要らないな。ハハハ」
鉄平は自慢して言ったつもりであったが、分隊長も少尉も大きく笑い出してしまった。すると鉄平のほうが驚いてしまう。少尉は腹を震わせて続けて聞いてきた。
「それで、どんな練習をしたンだ?」
「風呂敷を背負って、ムササビのように、木から木へ」
すると面接をする二人はますます笑いを大きくする。
「それで、飛べたか?」
「いえ、落ちました。何度も何度も落ちました。でも、こうもり傘で風に乗ることはできました!」
鉄平はまじめに答えた。大尉は呆れた顔を隠さない。
「烏山、やっぱりお前はバカだ。飛行兵は無理だな」
と分隊長が笑いを無理に沈めながら言うと、
「こうもり傘か……」
と少尉は真面目顔になって言う。
「君、もう一度聞くが、ほんとに空を飛びたいか?」
「はい!」
多少なりとも小さい頃からの夢が叶えられそうに感じた鉄平は子
供のように明るくはっきりと答えた。
「よし、君には飛んでもらう」
鉄平は舞い上がり想像してしまう。鉄平の乗る『隼』が啓二の乗る『零』に追いつき、鉄平は風防ガラスの中の啓二を覗き込む。振り向いた啓二の驚く顔が見えた。
分隊長は不安そうな面持ちで後ろの少尉を振り向いた。
「龍宮たつみや少尉……」
少尉は面接をする分隊長から烏山鉄平の書類を受け取ると、その場で目を通し、大尉に申し出た。
「大尉殿、この者の一〇〇一いちまるまるいちへの配属をお願いいたします」