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自分か無い。なんてクソ喰らえ。


たえちゃんが泣いた。

自分がないと言われたことが
今も胸に刺さってる。
という。

すかさず、
『お前があり過ぎる!』
と言わなかったの?
と笑いに変えたかった。

そんな男のために
流す涙なんて
一滴たりともないはずなのに。

画面越しに
ポロポロ涙をこぼすたえちゃんを
すぐにでも、
抱きしめてあげたかった。

わたしたちはいつでも、
言葉の無不地帯で生きている。


まるで
アメリカとメキシコの国境線のように。

毎日、
生きるか死ぬか。

言葉というテポドンを、
私たちはナップザックに
入れてるかのように
気軽に扱いすぎているのかもしれない。

「そんなつもりじゃない・・・」
という悪気なき悪意がいつも
正当化される。

行動が伴わない言葉は、
虚無でしかないにも関わらず。

口は悪いけど根は優しい。
というのは、
結局言葉に操られているのだ。

言葉なんかいくらでも
嘘をつくことができる。

しかし、
人の本質を見抜くためには、
その人が日常
使っている言葉を注意深く
観察してみる必要がある。

もし、
生まれもった階級というものが
存在しているとすれば、
そのこと自体を変えることはできなくても、
生きていくステージを
変えることができるのも
「言葉」であり
「言葉の遣い方」
次第だ。

言葉を操るというのは、
言葉に支配されなくなるということである。

海外の映画を見ていると
時折、「ファック」などのスラングを
子どもの前で言ってしまい慌てだす
シチュエーションを見受けるが、
それは、
言葉によってもたらすものは
相手への侮辱ではなく
自分への戒めの言葉に
なってしまっているのだ。

私たちは、
そんな意味なき言葉にいつまで
振り回される気なのだろうか。

どんな言葉も
律儀に間に受ける必要はないが、
切り返す必要はある。

大概の場合、
無意識に話しているだけなのだ。

誘導尋問なんていうものは、
ほとんどが自分都合にできていて、
私を含む関西人はほぼ
反射でしか会話をしていない。

だからこそ、
確認作業をしていかなければ
ならないとも思う。

同じ言葉を使っているという
大きな勘違いが
誤解を生み出す原因なのだから。

言葉は同じでも、
認識している意味が違ったら、
それはもう別の話なのだ。

夏目漱石でさえも、
I LOVE YOUを
「月が綺麗ですね」
と翻訳したものだから、
「何言ってんねん。気ィ利かんやつやな」
と大阪の女の設定だとすれば
瞬間的にツッコまれるはずです。

自分の言いたいことを言うのではなく
相手の言って欲しいことを言えることこそ
自分の素直さが試されます。

好きな人ができても、
「好きです」と言えない私。

つい、
「好きでしょ?」と言ってしまう
ズルい女なんです。w

と言うことで、
またnote再開です( ´ ▽ ` )
引き続きnoteのアイミカもよろしくね〜〜〜









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