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72.アジフライ弁当


それから約束の日はあっという間にやって来た。
ひとりであの銀座のバー
「アンコーラ」に行くまでの道のりは長い。
考え事が捗る移動時間。
早くお店に入りたい気持ちと、
右も左もわからず、
足手まといになるのでは無いかという不安とが
頭の中を行ったり来たりしているうちに、
予定より1時間も早くお店の前に着いてしまった。
ひとまず近くにあった某大手チェーンの
ドーナツ屋さんに入ることにした。

わたしが普段から行くような場所にあるそのドーナツ屋さんは、絶対に混雑していて座れないのに
時間帯もあるのかもしれないが銀座は違かった。

ちょうど窓際の席に座り、
ちいさく(いただきます)を言って
もちっとしたドーナツをひとくち口に入れた瞬間
斜め向かいに、
長い足を組んで芸能人オーラを放ちながら
ホットコーヒーを飲んでいる女性が目に入った。
まるで異国のテラス席が浮かぶようだったし、
なんなら室内なのに
風が吹いて髪が靡いているように見えたくらいだ。
これが銀座のドーナツ屋さんか。と恥ずかしくなって背筋だけ伸ばした。

いつもは店内で食べることも出来ないそのお店に
せっかく珍しくさっき座ったばかりだというのに、
なんだか落ち着いていられず
結局30分前にはアンコーラの前に戻った。

伝えられていた時間の3分前にママ到着。
「早かったね!」と声をかけられ、
(今日じゃなかったのかも)と不安になり始めていたことを飲み込み
「絶望的に方向音痴なので」と笑い混じりに答えたのを覚えている。

「電気はここね。
制服はここに入ってるからシャツ選んでね、
着方わかる?」
ママはテキパキと色々教えてくれて
無駄がなくて格好良い。

ノリのパリッとしたシャツに、
シャープな黒のベストを重ねる。
長いサロンを腰に巻いた自分を鏡越しに初めて見たとき
プロっぽいねぇ。と呟いた。
もう二度と着られないかもしれないからと、
こっそり化粧室で写真を撮ったのが懐かしい。

制服を着て、カウンターに戻ると
ママが出前のチラシをめくっていた。
「中華、フライ弁当、サンドイッチ…
  色々あるけど何が良いかな」
着いて早々にご飯をいただけるなんて!
開店したら食べるタイミングがないからねと言われ
ドーナツひとつにしておいて良かったと心から思った

記念すべき銀座の出前デビューはママおすすめの
【アジフライ弁当】で決まった。

出前の電話までも丁寧に教えてくれた。
もしかしたら今日限りかもしれないのに。

それから少しして出前の男の人が入って来ると
「ご苦労様〜」と親しげに言葉を交わし
ほかほかのお弁当がカウンターに置かれた。

わたしも「ありがとうございます!」と挨拶をした。  「まいど〜」

…まいど〜だって。
本当に言うんだなあ、と嬉しかった。

ママはお弁をあけると、冷蔵庫を開いて
「お醤油もあるし、ポン酢も美味しいよ、
   好きなの使っていいからね」と
カウンターに並べてくれた。

わたしは着替えただけで、
もう賄いを食べようとしている自分に
ご飯食べに来た人みたいだなと気おくれしたが、
アジフライをひとくち食べたら
ドーナツの面影なんて一瞬で消え去り
綺麗に完食したのだった。

お弁当のガラを片付けている途中で
扉が開いてベルが鳴った。
ここに来て初めてのお客様、

すぐに「いらっしゃいませ」と挨拶をするママに続いて「いらっしゃいませ」と挨拶をしたが、緊張で声が小さかったと思う。

お客様がご来店されたら、
お席、お荷物、上着、おしぼり、コースター
そこから会話をしつつオーダーを伺う。
一連の流れをまずは観察学習…

今思い返すとより一層
ママの滞りなく流れていく接客は、
本当に素晴らしかったなと気付かされる。

そしてわたしは何もできない子だったなあと思う。

続)

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