ついに産休♪ 余暇にDobbs v. Jacksonについて考える

ついに今週から半年産休。予定日2週間弱前スタート。アメリカだとこれは早いらしい。経過順調な場合は一般的なのは予定日1週間前スタートだと。担当医の先生がレターに昨日からと書いてくれたからそのまま出したけど、気になって会社にも確認しちゃった。2週間も前から休んでよろしいんですかね?って😂 日本人にはたまげられるけどこれが実態。ただ、ここまでくるとしんどいのはひたすらお腹の重さだけだから、肥満大国のアメリカにとってはあまっちょろい話なのかもしれない😂 妊娠により増えた体重を全てかき集めても電車の向かいに座るおばちゃんの片腕分くらいにしかならなそうだしな。階段は私よりよっぽどふーふー言ってるし。そして期間はアメリカでは通常2-3カ月らしいけど、うちの事務所はジェネラスに半年(一部無給)くれる。総じてすごく好待遇な産休というわけだ。いずれにせよ、働かずしてお給料をいただけてみんなに祝福してもらえるのはシンプルに素晴らしい。この間のコストを喜んで出すから、帰ってきてねと思ってもらえるメンバーでいたいと思う。復帰したらたくさん良い仕事をしよう。

妊娠経過順調でも出産1-2カ月前からは仕事は休み、1年とか2年とか産休育休があるのが当たり前の日本からしたら何て厳しいの!という話だと思うのだけど、産前の休暇は医者の見解次第で調整、産後は母体がほぼほぼ回復するであろう2-3カ月を最低として、その後は有給と無給を組み合わせながら個別判断というシステムは、個人的にはリーズナブルだと思う。妊娠・出産は本当に本当に個人差があるから。妊娠したらこうだ、出産したらこうだと画一的に語られていることの多くは語っている人の個人的経験に依拠するところがほとんどで、実際やってみたら「ん?違うんですけど」ってなる部分たくさんあると思うし、正直、元気で諸々順調で、仕事が好きな人にとっては1週間+2カ月で十分だったりするみたい。その代わり、復帰後も個別事情に対するフェアでポジティブなアプローチを会社として共有していることが不可欠。手厚い福利厚生と銘打って、妊娠した瞬間腫物に触るように対応を変えて、良きお母さんでいろプレッシャーをかけて長く休ませてなんとなく第一線から外してしまい、戻ってきた時には「マミートラック」だのなんだの言って心では実力は評価せず、表面的には可もなく不可もなくなポジションに引き上げるってことをやってると、「働き評価されたい」人ではなく、「あまり働かずして上に行きたい」人が会社に残りやすくなり、働き評価されたい人はいくら頑張っても一向にフェアに見てもらえない苛立ちから会社を去る、という残念な構図ができあがる。これはテーマを変えれば女性に限った話じゃ全くなくて、競争を伴わない表面上の雇用保証は必ずしもプラスの効果ばかりじゃないんだよね。だから一見スパルタなこのアメリカ式産休育休は私は嫌いじゃない。

賛否両論あるかもだけど、妊婦だろうがお母さんだろうが仕事は仕事、質×量+αで計算されるその人が会社にもたらすトータルでのバリューが下がっても構わないということにはならない。というか、下がるならそれ相応の処遇になるのは仕方ない。ただ、質、量、+αそれぞれの比重が変わるのはほぼ必然だろうと思う。子供いようがいまいが、20代前半のバリューの出し方と30代半ばの今のバリューの出し方は違うだろうし、新卒の頃のように、何もわかりませんが寝ずに働きます!!みたいなことはもうやってられないし。40、50になってったらなおさら。量だけを武器に働き続けてたら絶対的に子なしワーカホリック(1年前のわたし)には勝てない(親かパートナーに100%預けない限り)から、質と+αを磨いていくのがこれからの戦い方なのだ。仕事ファーストです!土日祝日夜中でも全然オッケーです!ディナーでもゴルフでもビーチでもパソコン持ってっちゃいます♡をあまり武器にしすぎてはいけない。肝に銘じるんだ、わたし。半年後のわたしは1年前のわたしより評価されるのか。圧倒的にフェアな競争環境だからこその、怖さ。産休二日目でもう震えてるんだけど大丈夫なんだろうか。

と、まあ、子供を迎えるにあたり色んなことが頭の中をぐるぐるしている昨今、アメリカ全土を大いに騒がせている、人工中絶に対するConstitutional Rightsを否定したDobbs v. Jackson。人工中絶の合衆国憲法上の権利を認めた50年前の画期的(とも言えるし多少解釈として無理をしたと考える人もいる ― だから破棄されちゃったわけだけど)な判決だったRoe v. Wadeを破棄し、人工中絶の是非は各州の立法に任されるべきだと結論付けた。つまり、いきなりアメリカ全土で中絶が禁止されたわけじゃないし、連邦最高裁として中絶の是非を議論したわけではない。合衆国憲法が保護する権利ではないから、連邦政府は関与しません。州に任せるね!という判断というわけです。ただし、これは効果としては絶大で、半数近くの州で中絶を違法とする立法がなされるであろうと言われています。

いつも新しい権利を連邦最高裁で争う際、所謂保守派とリベラル派との攻防戦は、その権利の「是」か「非」かで対立するのではなく、リベラル派が「是」、保守派は「是とする根拠・ベースがない。州に任せよう。」で対立する。法の拡大解釈を防ぐ上でこの保守派の手綱を握る力は大切ではあるのだけど、内容によっては、その画一的な論調に、合衆国憲法に明白な根拠を求めよったって、いったい何年前に作られたと思ってんだよ!作った人みんな死んでるよ!合理的に考えようよ!と言いたくなることはたっくさんある。もちろん、州に任せるという考え方自体を間違っているとは思わないし、州の意見が半々に分かれているなら、それが民意。中絶を禁ずるべきと思う人たちがいるなら、その人たちの意見も公平に反映されるべきだし。

でもね、あくまで私見ですが、中絶にしても、同性婚にしても(これはアメリカでは7年前についに認められ、ちゃんと有効たけど!)、権利が認められれば、その権利を行使するのは当事者たち。だから権利を求めていた人たちは救われ、使う必要のない人は使わなくていい。一方、権利を否定されたとき、その権利を求めていた人たちは絶望し、一方、救われる人って、誰なの?当事者になってみないとわからないことが、世の中腐るほどあって、わからないなら支援しろとまで言わないから、むやみにその人たちの権利を否定しないように気を付けよう、くらいの想像力も持てないの?と思ってしまう。望まない妊娠をしたことのない人が、「それでも産むべきだ。」と言えちゃうのはどうしてなのか。私は、自分がReadyな時期に、大好きな人と、この上なく幸せな形で妊娠を迎えることができたすごく幸運な妊婦だ。それでもなお、体の変化には衝撃を受けるし、ぷちアイデンティティクライシス的な感覚もないわけじゃないし、キャリアプランも練り直しが必要だなあと感じるし。新たな命を生み出すってすごく大ごとで、少なからず自分の体に犠牲を伴って生み落とし、やっと生み落としたと思ったらそこからが本番の始まりだし、その命を生み出したことに責任を持って今後何十年と生きていけるのか、とか、きちんと考えるべきことがたっくさんある。だからこそ、望んで、覚悟を持って、いや、そこまで大仰でなくていいか、少なくとも自分が産むという最終判断をして、産める社会であってほしい。それが、生まれてくる別の人格を持った子供という他人への責任でもあると思う。

今回の判決が出てしまった以上、合衆国憲法上この権利が保護されるにはまたしばらく時間がかかるだろう。その間、各州の市民が、ただのイデオロギー論争の一環としてではなく、この問題の本質をよく考えてどういう立法を支持すべきか考えて欲しいと強く願う今日この頃です。




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