天守と本丸御殿が現存している日本唯一の城、高知城 [現存12天守][日本100名城][高知県高知市]
(2021年5月のブログ記事転載)
江戸時代に建造された天守と本丸御殿が現存している唯一の城、高知城へ行ってきました。
高知城は関ヶ原の戦いの功で掛川6万石から土佐24万石へ加増移封となった山内一豊により築城されました。ということで、高知城の大手門そばには山内一豊公の銅像がお出迎えです。
と、高知城の縄張りです。
長宗我部元親がこの地に築城を試みるも、湿地帯で水捌けが悪く、水害が多発したので、この地を捨てて、桂浜そばに浦戸城を築城しました。
関ヶ原の戦いの後に土佐へ入封した山内一豊は当初は浦戸城へ入りましたが、手狭であったことと、城下町を形成するにはこの地は不向きと感じて、長宗我部元親が捨てた大高坂山に新しい城を築きます。それが現在の高知城です。
高知城の見所は色々ありますが、特に挙げるとしたら以下の2つですかねえ。
1. 本丸
天守、本丸御殿、多聞櫓が明治時代の破却や戦火を逃れて現存していること。
2. 石垣
安土城、竹田城などを手がけた近江坂本の穴太衆が手がけていること。
水捌けの悪さを補う仕組み(排水の石どいがあちこちに)
長宗我部時代の石垣
ということで、追手門(大手門)から高知城へ潜入です。
そうでした!
追手門も見所の1つ、現存している門であり、重要文化財です 。
石どいですね。この地は多雨地帯のため排水にはかなり注意されていて、高知城の石垣をぐるっと見て回りましたが、他のお城よりも多めにあるような気がします。
三の丸の石垣、穴太衆のお仕事で野面積みですね。
山内一豊の奥方様。
司馬遼太郎の小説、功名が辻のモデルでもあります。
さて、三の丸を目指します。
これは門跡の石垣ですね。
桝形になっていますが、ここは門の扉に多くの鉄板が打ち付けられていて、鉄門と呼ばれていたそうです。
更に階段を登った先には本丸と二の丸をつなぐ詰門が見えますが、三の丸方向へ右折します。
三の丸から鉄門を見下ろしてみた。ここにも櫓か何か建物があったはず。
二の丸へ続く階段。
三の丸、ここには大書院と呼ばれる広大な建物があったとか。年頭の礼式や五月節句、その他儀式などで大勢の藩士が集合するときに使われたそうです。
三の丸から天守方面はこう見えていたんですね。
さて、二の丸へ向かいます。
ここも桝形になってますね。直進侵入を許しません。
振り返ると天守が見えますね、これはいい感じ。
二の丸、ここには政務を行う御殿がありました。
今では三の丸同様に広々とした空間ですけどね。
さて、いよいよ本丸へ向かいます。
ここから先は江戸時代から現存している建物ばかりですよ!(興奮!)
詰門内部。
本丸と二の丸の間の堀切に設けられた櫓門で廊下橋の役割と、藩主のもとに向かう家老の待合場所、詰める場所でもあったため、詰門という名前です。
詰門を抜けると、いよいよ本丸です。
本丸に入りました、ここの建物は全て現存ですよ、現存!
西多聞櫓。
東多聞櫓。こちらは中を見学することができます。
本丸御殿と天守。
黒鉄門。
守りを強固にするために、扉の外側には黒漆で塗られた鉄板が打ち付けられていて、2階部分は武者が隠れることができて、石落としがあったり、防御性の高い門、、が現存してる!
本丸御殿へ入りますが、ここからは入場料(大人420円)を支払います。
天守内部へ入ります。
石落とし
鉄砲狭間
破風の間
そして最上階です。
現存天守は独立式望楼型4重6階です。
天守からの眺め
そして、東多聞櫓の内部
三の丸の水路遺構。降った雨水を集めて排水する工夫がされていたんですね。
そして、三の丸に長宗我部時代の石垣が残っていたのも感激ものです。
実は高知城へ来たのは2回目で、最初は10年位前だったと思います。
その時はお城に興味はなかったので、階段が多いなあとぶつくさ文句垂れながら、本丸まで一直線に向かっていって、天守・本丸御殿を見学するには入場料がかかると知り、払ってまでみなくてもいいや、と引き返したという、、、。
それがその後、マニアックに城のあちこち、隅々みて回る人になるとはねえ、、、。というか、あの頃の無知な私をぶん殴りたいです(笑)
高知市博物館からの眺めがベストポジションですが入館料がかかります。
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