花崗岩丘陵の南部氏の居城、盛岡城 [日本100名城][岩手県盛岡市]
(2024年2月攻城)
JR東日本の平日早割パス、キュンパスを使い、東北新幹線で盛岡を目指した。
盛岡といえば、盛岡城、豊臣政権に1598年に築城の許可を得た南部信直が築城開始する。
盛岡城の縄張り図。
北上川と中津川に合流する地点の突き出た丘陵に城が築かれている連郭式平山城。この縄張りは浅野長政の助言によるものだと言われている。
江戸前期くらいの縄張り図だが、拡大してみると二の丸の外壁が丘陵地であることを利用して一部土手になっている。
ということで、JR盛岡駅から歩いて10分くらい、商店街を抜けると三の丸のお堀が見えてきた。
三の丸の門跡(瓦門)は石垣修復と発掘調査で立ち入ることができなかった。
三の丸門跡のそばには桜山神社があり、その敷地も三の丸内になるのだが、そこに烏帽子岩なるものが鎮座していた。
盛岡城築城時にこの地を掘り下げていたら出てきたのがこの巨大な岩で、烏帽子に似ていることからその名が付けられたのだろう。以来、南部藩のお守り岩として崇拝されてきたとのことだ。
そして、きれいに公園として整備されている堀跡。
古図と照らし合わせると、ここに御台所門があったと思われる。
台所と呼ばれていた区画は広場になっている。
そして、広場の片隅には修復工事中の石垣が置かれていた。その奥には三の丸、二の丸の石垣が見える。
三の丸の門跡が工事中なのは残念だったが、石垣を解体した状態を近くで見れたのはこれはこれでまた良かった。矢穴跡をみると気分が高揚する。
台所から見た本丸の石垣。
台所から緩やかな坂を登って三の丸へ向かう。
三の丸の中から瓦門跡を眺めてみた。直線侵入を許さない門の構造であることが見て取れる。
そして、三の丸から二の丸へ向かうと、ここも門跡(車門)。
そして二の丸跡。ここには大書院という御殿があり、さまざまな儀式や儀礼、藩主の対面などに使われていた。
二の丸から岩手山が見えた。当時の人たちは目の前に遮る建物がないからもっと大きく裾野まで見えていたんだろうな。
当時は目の前の道路辺りは北上川だったはずで、北上川を渡ったところに菜園があったようだ。何を育てていたのかな?
二の丸から見た三の丸の石垣。
江戸時代初期の縄張り図では北上川側の二の丸、三の丸は土手になっていた。後の改修工事で石垣となった。
二の丸と本丸を繋ぐ橋。
橋を渡って本丸へ向かう。
本丸の区画を取り囲むように多聞櫓、隅櫓があったようだが、その痕跡を残す石垣くらいしか残っていない。
本丸には中奥、大奥の御殿があった。
そして、本丸と腰曲輪を繋ぐ御末門跡。
御末門から腰曲輪へ向かう。
腰曲輪は城の守りを強固にするために、主要な曲輪(本丸など)の周囲に置かれる細長い曲輪のことで、盛岡城は本丸の東西南の三方を囲み、一段低くなっている。
腰曲輪から本丸の石垣を眺めてみた。
この階段部分は明治以降に公園として整備する際に作られたものと思われる。
隅櫓跡の石垣を眺める。
南西部(北上川方向)の本丸の石垣
ここの部分の石垣は後に(17世紀前半)本丸の拡張工事を行なった際に、築城時の石垣を覆い隠すように作られていることがわかったそうだ。そう聞くと、他の部分の石垣と比べたら整っている感じだ。
こういうの1つとってもほんと面白いなー。
そして、奥に見えるのは井戸跡。
ここの本丸と二の丸の間に門(穴門)があったようだが、現在は跡形なし。
そして、腰曲輪の吹上門跡を抜けて、坂下門へ
と言っても、吹上門は門跡の石垣くらいしかなく、坂下門は現在は道路に、、。
この吹上門の坂は当時は急勾配の石段だったところを、明治時代に入り、緩やかな坂道に整備されたとのこと。当時は坂下門(今は道路)を抜けたら、北上川で橋を渡って向かいの菜園に行ってたのかあ。
そして、腰曲輪の吹上門跡の石垣を見上げる。
彦御倉(現存!)
江戸後期頃に建てられたとされる土蔵造りの木造2階建の建物で、現在地の100m西側の市道側にあったものを移設した。
しばし、腰曲輪の石垣を愛でながら散歩する。
ほんと、形とか矢穴跡とかじっくり見てしまうんだな。
そして、三の丸から突出した曲輪、下曲輪の外側からぐるっと見学する。
下曲輪には勘定所が置かれていた。
現在は昭和の匂いがする懐かしい飲食店などの建物がずらりと並んでいた。その中にはじゃじゃ麺で有名なお店、白龍本店があり行列を成していた。
最後に築城当時は土手、その後石垣となった三の丸、二の丸を見て攻城終了。
次回は運悪く閉館していた「もりおか歴史文化会館」も見学したいところだ。
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