誹謗中傷・批判する前に、まず自分の行いを。
今回は、少し辛口の記事を書かせて頂こうと思います。
SNSで飛び交う誹謗中傷や批判。
情報の中には、批判する対象の実体や状態を全く把握せずに書かれた内容も多く存在します。
私は、人を否定する行為を好みません。
それでも否定的な意見は当然持ちます。人間だから。
なぜ否定する行為を好まないのかと言えば、“私はその人の立場にも、似たような立場にも立ったことがないから分からない”というのがあるからです。
経営者の立場で、同じ仕事柄の立場で、同じ活動をしている人として、同じ育児をしている人として。
さらに言えば同じような家族や支援のされ方や、環境、同じようなトラウマを持っていたり、同じような愛し方をされていたり、同じような学び方をしているのかといえば
全員違うはずなのです。
なのに私たちはどこか他人や似たような人を“分かった気”になっていることがある。
だから何が間違っているかなんて、法律以外にはとやかく言う資格など持たされていないのです。
それでも物申したくなる瞬間、人生にはたくさん存在します。
だから私はまず自ら経験しなくちゃいけないよなと思うのです。
偉そうなこと言って、自分は大したこともやってないのに“やってみな!”とか“できてない!”なんて言えない。
だから自分の力で出来る範囲は一生懸命挑戦したり、やってみようと思うのです。
それ以外のこと、持たされていない知識、自分の力が及ばないところに関しては、口出しができないのです。
それでも口出ししたいのなら、知識をたくさん入れなければいけないし、自分で活動してみて“私個人の経験の一部”と提示しなければならない。
何が言いたいかというと
“同じ土俵にも上がっていない人が、ガヤを飛ばしたり、批判的な意見を言ったり、その人自身のやり方を否定すること”はとても身勝手な行為だと言いたいのです。
人間はやっていく過程の中で、失敗や成功を繰り返し成長していきます。
不出来なところが目についたり、あぁしてあげたい。こうしたらいいのに。なんでそんなことするの?と思うようなことも乗り越えていきます。
完璧じゃないけど、それでも一生懸命真面目に取り組んでいる人もいる。
どれだけ人が失敗しようと、一生懸命やってきたという過程まで“値踏み”していいわけがありません。
私たちは文句ばかりを言うのではなく、まず己を生きなければならないと思っています。
誰かにものすごく物申したい時・改善して欲しい時は、感情論だけではなく、情報や知識を入れた上で解決を試みたりすることが先だと思うのです。
無知を呪いつつも、他人を否定することは、自分を可愛がるだけになっているんじゃないかなと思います。
してもらって当たり前の感覚でいては、自分自身の人生は良い方向にいけませんよね。
もちろん支援が必要な方もいらっしゃりますし、そういう方々を否定したいわけではありません。
助けてもらう時もある。助ける時もある。
持ちつ持たれつであり、そういった循環がとても必要だなと感じています。
誰かに足らない何かを罪だというのは、自分自身に対しても罪だといっているようなものです。
自分を肯定する感覚をモノにするためにも、誰かを否定したり、自分だけのモノにしないことも、とても大事なことです。
だって人間は皆様々な別々の美しさや知識や経験を必ず持っているのだから。
REN