フツウ と カワリモノ
近年、様々なタイプのマイノリティとされている当事者側からの啓発活動や発信が気軽にできるようになった。それは、マイノリティの専門性に対し興味を示す者や専門家が増えてきたり研究なども増えたことや何よりネット媒体で当事者の発信が行いやすくなったことに加えその繋がりで似たような境遇の人と関わりを持てるからなのかもしれない。メリットになるかデメリットになるかはケースバイケースでその先は言わないでおこう。
そんな中で出てくるテーマといえば
【 普通とはなにか? 】
である。マイノリティ(少数派)とマジョリティ(多数派)は【普通】というテーマに対して論点が少しばかりズレてしまうが、”世間的”な視点から見れば
マジョリティ = 普通
にあたるのかもしれない。
協調性教育な日本文化から言えば上記の方程式は考えとしては合っているのかもしれない、そしてそれが『 普通(世間的)のものさし:基準 』とされているように思う(※個人の見解なので悪しからず)
そして、そのものさしから外れている、ズレている者は「 変わり者 」というレッテルもしくはイメージ、噂になり孤立を招いたり、いじめなどの被害に遭うもそれすら周りとの違いで正当化されることもある。
私も過去にその当事者だ、被害者側で。しかし、この表現は
” 過去のことで今も被害者面するな ”
という傍観者や他人からのヤジも見聞きするが、勝手に周りが『過去』にしているだけで、所謂
被害者:心の傷(精神的苦痛及びトラウマ体験)を負ったもの
は、ずっと苦しみ続ける。” 過去 ”として済むほど精神への影響が大きいのだ。
だが、ここで過去を掘り下げることは今回のブログ内容に沿わないのでいずれ投稿でもしようと思う。
普通と普通ではない変わり者と無意識に振り分けがちだが、きっとそれは錯覚なのかもしれない。視覚的な錯覚ではなく、思考的・論理的な錯覚である。自分に問いてみたい、そして自問自答を…。
『 そもそも自分は普通(マジョリティ)なのか 』
と。
「自分は普通であるという思い込みや錯覚ではないだろうか」
千差万別 ・ 十人十色
誰一人として自分とまったくもって瓜二つな人間がいるわけではない。
例え、血が繋がっていてもいなくてもだ。自分ではない人間:他人であること。
人間という生物学的な種族は同じであってもそれ以上でもそれ以下でもないことを。
あ な た は 本 当 に ” 普 通 ” で す か ?
変 わ り 者 で は な い 、 と 疑 い な く 言 い 切 れ ま す か ?
by . irodori 2021/11/25