呪詛とすそ

「すそ」というのは、いざなぎ流の言葉なのだそうだが、呪詛と書いて「すそ」というのだそうだ。

まだ目に見える形では災厄とはなっていない『すそ』つまり『ケガレ』

小松和彦著 日本の呪い「闇の心性が生み出す文化とは」

非常に聞き慣れない言葉なのだろうが、漢字にすると何となく見えたかと思う。しかし、この漢字から来るイメージよりも、”すそ”という言葉はもっと漠然としているのだと思う。

人には多かれ少なかれ、誰かを恨んだり、妬んだり、はたまた呪いたくなる心性がある。『あいつがいなくなれば(死ねば)、自分の成績の順位(会社の地位)が上がる』と思ったり、人の足を引っ張ってでも出世しようとする同僚や、ことあるごとにいじめる同級生に対して『不幸になればいい』などと思ったりすることは、現代の複雑な人間関係にあってはさして珍しいことではないだろう。これは、『怨念』と呼んでもいいものである。この本では、こうした人間の心性を『呪い心』と呼ぶことにする

小松和彦著 日本の呪い「闇の心性が生み出す文化とは」

漢字で書くと「呪詛」というのは、”憎きあいつ”という明確な方向性と対象を帯びているようなイメージがする。それは多分に「丑の刻参り」といったあの象徴的な儀式を思い出すからだと思うのだが。

ところが「すそ」というものは、どうも、かいつまむと「今は呪い未満の、人の負の念が作り出した悪意」という事らしい。

私は「ターゲットを持たずに彷徨っている、或いは置き去りにされてしまった人間の無自覚の悪意」と理解する方が、どちらかというとしっくりくる。

例えば、どういうことかといえば、人の家の玄関先に、迷惑も考えず、ペットのワンコに糞をさせ、そのままバレずに立ち去ったとする。それをさせた本人は、最初から人の迷惑顧みずなのか、迷惑と思うけど回収する袋もないしと、ある種の後ろめたさを感じながら立ち去ったとしよう。

後から、自分の家の玄関先に、デン!と置き捨てにされたワンコの糞に気づいた家の主は、当然、烈火のごとく怒るだろう。

「誰だ!こんな所に糞なんかさせやがって!」となる。

しかし、その怒りの原因を作り出したワンコの飼い主は、とっととトンズラした訳であるから、その家の持ち主は、怒りの向け所がないまま悶々とした怒りを持ち続ける。その怒りの矛先は、本来、ワンコの飼い主に向けられるべきはずだが、加害者は、全くその事に責任も持たず、かつ、その事による報いを受ける事も無い。

さて、そこに「その家の息子」がたまたま帰って来て、ドカドカと玄関に上がり込む時に、ロクに靴も揃えず家に入ろうとしたら

「バカ野郎!靴位揃えて上がらんか!」

虫の居所が悪かったせいか、「靴ぐらい、揃えて入ったらどうだ。」の注意喚起で済むはずだったはずの言葉の前に「バカ野郎!」の一言が着いた上に言葉も荒々しくなったため、叱ると言うよりは怒る、もはや喧嘩を売るレベル。

今度は、怒鳴られた息子が悶々とした感情を抱える。

「何だよ!あのクソオヤジ!あの物言いったらねぇだろ!!!」

靴揃えなかったのは、確かに自分も悪くて、注意されるのも仕方ないとはいえ・・・ところが、彼は、家の前に糞が置き去りにされて、自分の父親が殊の外、虫の居所が悪かったことを知らないものだから、父親の口汚さに対しての呪い心が生じ、父親への憎しみに変わる。

すそが、増幅された悪意に変わる。
けれど、父親に歯向かう力のない息子は、さらなる悶々とした思いを抱えて、加害者の父親への憎悪だけでなく、それで足りなければ、周囲を巻き込む、新たなすそや呪い心を作り出そうとする。

たった一人の作りだした「すそ」、この場合はペットの糞だとして、それは方向を持たない悪意であり、その「すそ」のとばっちりを食らった父親の放った言葉から、今度は息子が要らぬとばっちりを食ったことになる。

最初の発端となった「ペットの飼い主の不始末」のとばっちりを食らった事がとんでもない被害者の数を増やす事になる。

しかも、悪質なのは、ペットの飼い主の無自覚な行動が、結果的に、その家の親子の仲に亀裂を作る行動に結びついた事を、この3人は自覚してないのである。そして、誰も早期に回収できない。

これがすそというものが「取り除かないと祭りさえ破壊されるほど危険」とされることを、うまく説明できたような気がする。

先に上げた小松和彦氏の文章では、なんとなく、すそというものは分かったが、なぜ、呪い未満のすそが、かように危険であり、「神殿の入り口の障子に鮮血が飛び散るほどの被害」を出すほどの結果になったのか、読んだあたりから悩み続けていたのだが、何となく腑に落ちたような気がするのだ。

というのは、このすそを、無自覚にまき散らすと、すそが拡大するだけでなく、その事に誰も気づかないまま、誰も回収できないまま、延々と悪意は増幅しながら、社会を巡り続けかねないのではないか?とさえ思える。

仮に、その息子が、昨日父親に叱られた腹いせに蹴っ飛ばした石ころが、たまたま、その隣の家のガラスを割り、それでも気持ちが収まらなくて、たまたま、気の弱いクラスメイトを散々にいじめまくったと考えたら、分かろうかと思うのだ。

すそを増幅させることで、悪意はどんどん拡散の方向へ向かう事になるし、それに巻き込まれる被害者の数も増えていく、という事に気づくのではないか。

で、何でこういう事を書いたのかと言うと、昨今、日本を覆いつくしているのではないかという、悪意の塊のような禍々しさの正体というか、殺伐とした空気が妙に社会を覆っているのは、過去30年間の不況の間に積もりに積もった人々の負の精神が生み出した「すそ」を、正体も分からぬまま、誰も回収さえできない規模の「呪い心」にまで膨れ上がった結果なのではないかと思うのだ。

これは厄介だ。

日本人自体が、無自覚に互いにすそを垂れ流して、相互に「人の迷惑顧みず!俺の人生一度きり!やりたいようにやるんだ!」などとやられたら、たまったもんではあるまい。

こりゃ、国が回らなくなるのも当然だわな・・・と思うと同時に、しかし、昔の人というか、いざなぎ流の人達は、よくこういう事に気づくことが出来たなぁ・・・と。恐らく、原始社会だったからこそ、人の関係も見えやすく、しかも、利害関係もストレートでダイレクトだったために。こうした負の連鎖が、村と村の抗争とか部族の争いにまでつながり、一方を滅びに向かわせたとか、歴史に書けないようなことがあったからこそ、すそ、という言葉が危険なものとして残り続けたのだろう。犠牲を払いながらも、そのことを後世の私たちに伝え続けてくれたいざなぎ流の方々と、祖先の叡智に感謝、である。

煤払い、というのは、どうも元々は、すそ払いだったのでは無いか。単なる掃除、ということではなくて、そうしたケガレを払って、また新しい気持ちで新年を迎えるのではないか、と。

いよいよ、日本も、本気で「国を分断し、世を健全な方向に回さなくなるほどの、今やバケモノレベルまで膨れ上がった30年分のすそ」を取り除かないといけないのかもしれない。

無自覚のすそを一人一人が垂れ流し続けているうちは、すそが膨れ上がる一方で、そうした「自分が無関係の人を巻き込むほどのすそ」を社会に垂れ流し続けていないのかを、自分の胸に問いかけなければいけないのだろうね。

結局、それをどこかで止めない事には「生まれた最初から悪意を抱えた鬼の子」でも生み出しそうな勢い・・・というか、もしかしたら、もう生まれて社会をぶっ壊し出しているのではないかと思うと、ゾッとする。

まったく。

ヨブ記でも、最初から読み直さにゃあかんか位の気分になって来た・・・

この文章が、煤払いの始まりであることを、一人の日本人として念じます。

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