歌における性格の演じ分けの重要性

まあ、今更、こんな話を真面目に書くのもどうかと思うのだが、こういう事を考えた事すらないんじゃないのか?という人が、とにかく技巧だけで歌を歌う事の違和感をやたらと感じるようになることが多くなったため、敢えて真面目に書いてみようと思ったのだが。

というのは。

声を出して歌ってる歌い手としてのあなた

単に、楽譜に合わせて声を出してるだけ、ってことの意味を分かってない人がいる。

歌詞の中で、その言葉を喋ってる登場人物は、果たして同一人物なのですか?ということ。

ロボット(物語の登場人物)に声を当てる人間(別な人間存在)

自分が素のままで裸のまま、それを演技抜きで実践するタイプのロックやポップスなら、その声を出して歌ってるあなたと、歌詞の中の主体としての人物は、同一人物のはずなのだが。

何か、歌詞を書く、歌うという事をやりたがる割には、この辺の事を全く考えてない人、というのが圧倒的に増えたと思っている。それでいて『うまく歌える方法を教えてください!』とか言われても

『知るかっ!』

って話にもなろうというもの。大体、その手の事を真面目に考えてなかったのか?と。

自分で歌詞を作り、歌を歌うという事の中で、一体、どこの誰が、誰に何を伝えようとして、その歌を歌っているのか、っていうフォーカスがまるであいまいなまま、何となく、憧れの人の歌詞の口調を真似、それっぽい言葉を列記して、歌詞を書いたような気分になっている。

だから、自分の歌を書いた、って言ったところで、心ある人は誰も共感してくれないのですよ、ってことを、本気でまるで分かってないのである。

上にも書いたのだが。

歌っている人間の性格やキャラと別に、歌詞の中の登場人物である私は、別に存在してるのか、同一人物なのか?

これ、素のままの自分の語り口調でやっている歌(歌い手の”私” = 登場人物の”私”)と、登場人物としての誰かを演技して歌っている私(歌い手の”私” ≠ 登場人物の”私”)であるかの最初の分岐点なのである。

歌い手の”私” = 登場人物の”私”
歌い手の”私” ≠ 登場人物の”私”

この区別もつけないで、ただ声張り上げたって、何にも伝わりゃしませんよ。だから『(技術的には文句なしに)うまいけど・・・うーん』みたいな事に繋がるのである。ただ、何となく歌を聞いているだけのリスナーがこの辺まで言語化できるわけがないのだもん。

男の歌い手が、女の登場人物を演じる、って事の難しさについては、つい最近、そういう挑戦的な朗読劇を見てきたからこそ、余計に申し上げておきたいのではあるが。

男と女というのは、肉体の構造であり、精神の構造であり、言葉の放ち方、息遣い一つ取っても、まるで違う存在なのだ
という事。単に上辺だけ真似たところで、一致などするわけがない。

特に日本語の様に、性別や社会階級ってロールに対して、主体の言葉まで違っているような社会性を映しまくった言語(丁寧尊敬謙譲、僕私俺あたしおいら)で、英語のような I や You みたいな無性別の使い方ができる言語と同じように考えることって、非常に難しいのである。
(まあ、正確に言えば、イギリス英語では 同位格二人称である Thou って言葉が昔はあった。それも目上目下の存在する階級社会を反映しての事だが。)

あと、宗教歌、国歌、校歌、童謡みたいに、社会的ロールや性別を全く反映していない歌って存在もある訳で。これが一番の曲者なのだ。

無性別、無人格、って歌もあるのである。何も考えずにその人がそのままの性別と立場で歌っている歌を、皆で歌うからこそ意義がある、っていうような歌と、ロックやポップスの様に『歌の中に存在するキャラクターが明確に存在するもの』同じ歌い方な訳があるまい、という話なのだ。

いや、歌を歌うって事に対して、少し考えが甘くないか?って事ってのは、実際そういう話でしかないのである。

それを真面目に考えないで、小学校や中学校で、皆で合唱しましょうねー、みたいな形で、何も考えずに宗教歌や国歌、はたまた、童謡を歌ってるような感覚のままキャラクターやロールが、その歌の演出、歌い分けや、歌うマインドにまで影響してくるようなロックやポップスに向かうっていう事自体が、大間違いも間違いだ、と言いたいのですけど。

要は、それまでの人生の中で、歌うという事に対して、ただ声を張り上げて音程を取るだけみたいな教育しか受けてない人間が、いきなり歌詞を書いて音楽を作るという事に対して責任が取れない状態なのである。

当然、それ聞いてる側も、そういう観点を全く持ち合わせていない人(そりゃ同じ基礎教育受けてきたんだから仕方ない)と、様々な音楽や歌を聞きこんで、歌の機微を聞き分けている人(言語化はできていないが、キャラクターの不一致や作り込みの甘さを違和感として感じる人)の間に、ある種の壮絶な壁が出来上がるのも仕方あるまい。

要は、中途半端な音楽教育を子供の時期に行う事が、どれだけの害を生じるか、っていうことも、合わせて申し述べておきたい訳だが。私は、学校の義務教育段階で子供に音楽の教育などさせない方がいいのでないか、とさえ思っているのである。音楽への理解が深まるどころか、中途半端な知識が返って足を引っ張っていて、実のところ、全く役に立ってないんだもの。

その事を10年近く、口酸っぱくなるくらい言ってても、全く意味が分かってないのである。

ロックやポップスにおける歌詞ってのは、演劇の台本以上にシビアで重要なものなのであって、ただ言葉を上っ面カッコよく並べたところで、それが人を感動させるほどの所になど、届くわけがないのである。

ましてや、それを、ただ音程が綺麗に取れました、リズムに合わせました、発声も十分に出来ました、とかって自慢されたところで、なるほどそれは確かに満たしてはいるけど、歌として聞いたらクソ歌もいいとこだ、ってものが出来上がりかねない、っていう危険をはらんでいる訳で。

その表現の拙さを、感性の違いだなんだとかって言葉で、誤魔化すんじゃないよ、ってのは、ガチで言いたい事の一つなのだ。

その歌を歌ってる人は、一体どこの誰だ?
(歌い手としてのあなたの事じゃなくて、その歌っている曲の中で歌っている登場人物は誰なのだ?)

そこのところを、もう少し真面目に考えて、その人物が一体どういう立場で、どういう考えの持ち主で、どういう声でどんな喋りをしてるのか。

演劇の俳優さんやアニメの声優さんはそこまで考えてるんですよ。落語家だって、アナウンサーだって、自分がどんな喋りをしてるのか科学的な考察を日々やってる訳なのだが。

歌い手志望の人間が、全くそれを考えていない。

大体、歌で音程やリズムを取りながら、声優や俳優レベルの演技的な表現をそこに合わせて、声だけで心情を伝えようなんてのが、そうそう素人に出来るわけがないのである。

歌が上手い、出来ている人ってのは、それこそ、その人のセンスで感じたものを何となくやってるのは確かであるが。

半分はまぐれ当たりでしかない。自分が今まで聞いてきた音楽の中で、何となくこんな風にやってるんじゃないか、っていうのを、その人なりに真似て研鑽してきたからこそできている風に見えているが。だから、どんな風に歌ってますか、と聞かれても『うーん、何となく』としか答えられない人だらけなのである。

本人が本人の意志で明確に『このように表現する』を考えて、きちんと実行できるような人は、まずお目にかからない。

ところが、そんな原始的なまぐれ当たりに頼って事を為そうとしてるのは、実は音楽だけなのである。他の声のジャンルの人たちは、もっと科学的、明晰に、発声のコントロール、息遣いや心情表現を科学している。

それは、歌の音程を取る発声のコントロールみたいなモノとは次元とか考え方が違う、別な科学的な考察がそこに存在しているという事でもある。

そうした所を真面目に考察する段階に来ているのではないか?
歌い手も。

一体何十年前のオカルティズムや精神論に頼って、音楽に向かおうとしているのだ?

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