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2-5 意識の「扉」を開く時が来た!目の前にある「自我」を超える瞬間とは。

記憶には、人によっては、自我とは別の、自我として別れた、大我と呼ばれる、存在でない存在から分離した瞬間の記憶を有している人もいるだろう。そして、その記憶を辿ってみると、大宇宙の中で泳ぎ回る自我を懐かしく感じる者もいる。

皆誰もが大循環の中にあり、時のない、無限定の世界を故郷として持っていたことが、やがて、輪廻する時を超えて、その精神が行き着くであろう、元の世界を目指すことになる。

そのような別れた、貴方という、存在そのものにも、とても驚くべき瞬間が、間も無くおとずれることだろう。それも、この「時」の中で。

何度もの、時を経て、やがて、来る時の端を待っていてはいけない。その先は滝壺!

必要なのは、出会いである。この時を有意義に過ごすためには、かけがえのない、出会いを得ることである。出会いが貴方を決めるはずである。

自我を超えるものを「無我」という。ムガ。無いもの、ない自己のことである。私達は存在ではない。何かの存在とは、「時」のことである。ひと時の音、バイブレーションの形態化に過ぎず、この共鳴の連続によって、音と音の擦れ合う、ガチャガチャの中で踊り狂っている。

さて、その自我を無我にすることは、瞬間的に可能である。それを「無いものを知る」と呼ぶ。在るものは、存在感があり、実感があるという、人の存在現象によって、我を失うことによる、非自己の想念がはたらくことで、リアルな世界を得ているのだが、この擬態なリアルを消すことが可能である。

ここまで、自己の存在の、存在以前の人の精神の所在、そして、自己の本体、ムガ、そして、それを得られないでもがいている区切られた「時々」という、擬態なリアル。それらの中にあって、特殊な出会いによる、無い世界との一体化という衝撃体験が、この「扉」へのアクセスにとって、最大のキーポイントになる点である。

この無いは「ム」というものの力を持ち、それは最大であり、すべての源泉となっている。「ム」を知るものを「仏」というだろう。案外、人はホトケになれるのではないか。現実な世界など、ほっとけ!求めるものは「ム」である。出会うものは「ム」なのだ。

「無いものを知る」方法について、次にお話をしようと思う。ついて来れない人は、これまでのところを読んでみてほしい。


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