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思考停止は人を殺す。〜所属から得られる安心感。サロン沼からの脱却。③〜
②の続きである。
まさかここまでの長文になるとは思わなかったから私自身おかしくて笑いそうである。
実におもしろい。
(一度言ってみたかった。)
思考を停止することは、すなわち他人の奴隷となり、自分ではなく他人の人生を歩むことだと私は考える。
(身の危険を感じ、あえてこれ以上考え込まないようにする、思考の停止は今回は省く。)
できる限り、私は自分で考えて自分が本当はどうしたいかを自分に問いかけて考えるようにしている。
思考を止めてしまったらそこで、人は、人の心は死ぬ。
ここで言う思考の停止とは、「みんながやってるから、みんながいいって言ってるから置いていかれないように私もやらなきゃいけない流れや空気」のような、同調圧力。
行動の起点を自分ではなく他人にすることや、
「この人は怒鳴ったり、小言がうるさいから従っていた方がいいだろう」のような人の思考を奪うことでも思考の停止とも言うでしょう。
正直な話、思考を停止させて流れに身を任せてしまえば、それはとてもとても楽なことである。
ちなみに、ここで言う行動の起点の例外で、ビジネスとして悩みを解決したい人のために考えることは思考の停止では無いことを明記しておく。
私もかつてパワハラ上司の元で働いたことがあるので思考を停止させて我慢して押し殺してその人の言う正解のための仕事をしていたことは何度かある。
その上司の元で働き出してから3ヶ月くらい経ったある日、とあることがきっかけで心が破綻して職場に行く電車内で号泣。
このお話も機会が来たらまた話そう。
仕事中も何度も気が付かれないように震えながら、怯えながら、涙ぐみながら耐え忍んだのを覚えている。
これは危険だと察知し、慌てて職場の1番上に直訴して職場を変えてもらった。
話を主題に戻そう。
オンラインサロンの講義を繰り返し何期も受講することは悪いことでは無い。
きっと内容もブラッシュアップされているのこでしょう。
また、サロンのメンバーで集まってランチ会やみんな同じような格好をして集まって写真を撮たりすることも悪いことでは無い。
むしろ楽しそうで私もやってみたい。
しかしそれも、実は
思考の停止の一種ではなかろうか。
あなた自身が本当に心の底からやりたいことなのか?
もし心の底からやりたいことなら思い残すことなく全力で楽しむのが良いでしょう。
本当はそうではなくて、ここにいさえすれば、仮に取り繕った笑顔でも顔に貼り付けるだけで存在を認めてもらえる。
または派手な格好をして、人目を引けば、否が応でも視界に入ってくるので、他人に存在を許可してもらえる。
と思い込んでいるのなら、それは要注意、危険信号であることを、気がついた方がいい。
本当の自分ではない他人の欲を満たすだけの嘘の自分を愛してもらっても意味がないのではなかろうか。
そこにあるのは虚無、穴の空いた空っぽの自分の心だけだ。
たとえ本当の自分が薄っぺらい欠点まみれの人間だとしても、それを自分で理解し、自分で受け入れ、自分で自分の存在を肯定できれば、きっと世界はあなたのことを愛してくれる。
本当にやりたいことではなかったと気がついて、それを認めることは自分の存在が根底から崩れ去るほどの恐怖かもしれないが、気がついてしまったらもう後には戻らず、勝手に前に進み出してしまう。
転がり出した球は止まることを知らず、前に進み続ける。
人生はどうせいい方向にしか進まないのだから。
安心して前に進むことをオススメする。
前に進むのが怖かったら、一滴の勇気をふり絞り、私にお声がけしていただければ、こんな私でよければ、共に歩み、良き伴走者、導者となることでしょう。
ちなみに先の、自分で理解し〜のくだりに関しては心理学分野における「セルフラブ」の工程を踏んだものである。
いつかこのことについても触れていきたいので書くとしよう。
ここまで読んでくれてありがとう。
このお話はここまで。
続きはまた今度。
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