「1999」はアーティスト髙橋海人の芸術作品
どうも。
今やこの世界は、King & Princeを好きな人間か、King & Princeをまだ知らない人間しかいない。
髙橋海人を知っているだろうか。そうそれは、令和に現れた怪物。今をときめくKing & Princeの愛され末っ子天使。ダンスにアートにマルチな才能を持つ天才。そんな彼が作詞を手掛けた楽曲、「1999」が収録されたKing & Princeの14thシングル「愛し生きること/MAGICWORD」が発売となり、全人類を震撼させたことは記憶に新しい。2023年変化の年、髙橋海人はダンス・アートに加え、作詞までしてしまう全方位無敵人間と化したのだ。
私はこの「1999」を聴いてからの数日、愛しさと切なさで感情がグチャグチャになり再起不能となった。そしてこの歌は最初から最後まで、「廉と海人」の歌であり、朝の小田急線くらい我々が入る隙なんてない。そこで、天才的アーティストが作詞したこの楽曲を紐解いていけたらと思う。しかし、名作ドラマの考察をことごとく外していくような私のお終いの脳みそでは到底理解できない難問の数々だったため、あくまで自論だということをご了承いただきたい。そして、決して正解を提示しているわけでも考えを強要しているわけではないことも念頭に、髙橋海人さんの「作品」を鑑賞してもらいたい。
まずこの「1999」という曲名。ご存知の通り、永瀬廉と髙橋海人の生まれ年から取ったスーパーエモタイトル。これからの人生、好きな数字を聞かれたら「1999ですが?」と答えようと、強く思う。
楽曲全体としては、巧みな比喩表現が印象的に感じた。天才作詞家・髙橋海人さんのデビュー作「話をしようよ」は今作とは相反して直接的な表現が多く、聞き手(ティアラ…(照))にダイレクトに届きやすい歌詞だった。しかし「1999」は抽象的な比喩表現が多く、(尾崎世界観じゃん…)と全思考が停止する。でもそれは、きっと「ファンに向けた楽曲」と「自分達のための楽曲」の違いだから。そう、「1999」は、アーティスト髙橋海人の芸術作品なのである。これはれっきとしたアート。アーティストが伝えたいことが一つの作品に詰め込まれて表現されている芸術作品。そして、その考察をするのが、アートの楽しみ方である。「何すかこれ?」みたいな現代アートも、「なんでこのカタチ?」「てか何が伝えたいん?」と色々考えることこそが醍醐味であり、正解なんてそもそもない。受け手の各々の解釈に委ねられているのだ。まさに、「1999」はそれ。正解こそ、世界でたった一人の人間しか知らない。そこがまたいい。我々は拝聴という名の芸術鑑賞をしているだけなのである。
そしてこれは私の友人が言っていて「なるほど、天才か?」と納得したことだが、廉と海人からティアラに贈る曲「話をしようよ」は、アルバム・ピースの『Dear Teara盤』といった、この世界で限られた人間しか手に入れることができないCDに収録されていたが、「1999」は初回限定盤に収録されている。それはきっと、決意の歌だから。ティアラ「だけ」ではなくて、King & Princeを知っている人、応援している人、愛してくれている人全ての人に「届いて欲しい」歌だから。神考察すぎて東大王かと思った。
まず冒頭の
作詞者は、この曲を「愛しいところから旅立つような、旅立ちの歌」「親離れ」と表現していた。「昨日を詰めた段ボール」はきっと、これまでの思い出を沢山詰め込んだ宝箱。長年住んでいた実家から引っ越す時の荷造りとして表すのが天才的。あの作業、なんだかちょっと寂しいんだよね。
ここで注目したいのが「同じ歩幅を歩いていた」と過去形の表現となっているところ。新たな夢に向かって旅立った3人(4人)についてのことだと解釈した。そして、納得して頷くまでに何度も話し合いを重ねたことをこの一文のみで表している。既にこの時点で下唇を噛みちぎって泣き始めるオタクも少なくない。
これから2人での活動を続けていく中で、その思い出が色褪せてしまっても、この歌だけは「きみ」の中に残るように。ここで言う「きみ」は、もちろん相方の廉。そして「きみ」を平仮名にすることで、永瀬backnumber廉さん作詞の「きみいろ」とリンクさせている恐ろしさ。続く「 I got your back」には、『あなたの力になる』『わたしがついてる』と言った意味があり、あまりのエモさに全臓器が粉々に散ってしまった。
朝日が昇る=新しい今日が始まるとなっているが、その朝がたとえ暗くて不安でも、「King & Prince」という名前だけは変えずに進むことで、強くいられる。いわば彼らにとってその名は鎧なのである。
そしてこの、「If I could be your color(あなた色になれたら)」は、進研ゼミでやったところ。そう、「きみいろ」に掛けているのである。一緒に過ごしていくこと=きみいろに染まっていく。なんだよその方程式。てか、どこの塾通ってた?
ここがいまいち腑に落ちる解釈ができず悔しいのだけど、この世界に入った頃のお話かなと思ったり。
だ、誰?あなた誰ですか…?もしかして…と受け手に委ねる恐ろしさ。「もう弱音?」と言っている人も、「なんて笑うだろうなぁ」と言っている海ちゃんも想像出来てしまう特級呪物フレーズ。
ここまで傾向と対策をしっかりしてきた方、歩幅が進行形になっていることにお気づきだろうか。歩幅は違くてもどんな日もこれから一緒に歩いていく二人。以前RADWINPSの最大公約数を、「無理に足並み揃えるのではなく、バラバラでもいい」「それぞれ目標に向かうペースは違うし、見つける作業は難しいかもしれないけれど、二人の最大公約数を見つければ同じスピードになる」と解釈していた廉を思い出した。これを知って歌に乗せたのか、はたまた知らずに歌にしたのか、もう正直どっちでもいい。どっちでも最高。むしろ知らずに死んでいきたい。
そして、「夜が痛い 」という表現に痺れた。文学史に名を残す天才の所業。来年から国語の教科書に載せてくれと出版社に直談判しに行こうと思う。そんな夜は「自分」のことをふと呼んで欲しい、と。廉は海人、海人は廉。ここでいう「名前」はKing & Princeとは違い、2人の「名前」なのだ。もし辛い時は、if I could be your one part(あなたの一部になれたら)。←勘弁してくれ
ここの短く刻むメロディーが好きすぎて爆発。思わず少クラの(NGワードですか?)スキすぎて踊る菊池風磨さんみたいになってしまう。
どの春なのだろう。昨日のことのように感じる春。雨の匂いがする日。夜の音ってなんだろう。しんみりとした静寂の夜か、雨の音だけが聞こえてくる夜か。涙の跡が残るほど泣いてしまったのだろう。ここで振り返りたいのが、「夜が痛い」という表現。きっと彼自身、不安に苛まれて眠れない「夜」があったのだろう。情景の描写があまりにも美しくて、世界的天才画家・モネかと思った。そして、そこにはいつでも「僕がいて」「きみがいた」。ここの「きみ」は複数人だろうか。僕ときみで過ごしてきた季節や時間には、意味も嘘もない。ただ偶然、それでも運命的に出会った彼ら。共に過ごしたことに嘘も偽りもない。
そして、転調したメロディーに続くのが1番のサビと同じ歌詞。
あれ、ここまで聴いてきて、なんだか聴こえ方が違うような。「どんな日もきっと思い出すの」の歌詞が、物凄く前向きに、明るく聴こえる気がする。沢山のキラキラした楽しかった思い出を両手いっぱいに抱えて笑顔で振り返るような、強い決意のような煌めきを放っている。冒頭でも言ったが、これは「愛しいところから旅立つような歌」である。これだからアーティスト髙橋海人は恐ろしい。我々は今、とんでもない才能を目の当たりにしている時代の傍観者なのだ。例えて言うなら、夏目漱石の作品をリアルタイムで読めている選ばれし人間。髙橋海人が作り出した芸術作品はこの先の後世に語り継がれるであろう。
不変であり、可変。廉と海人のeternal。廉と海人の1999。