エンジニア以前のキャリアを棚卸しする
前書き
こんなnoteを書いたところエンジニア以前のこともきになる!と嬉しい声をもらったので棚卸ししていきます。
先日25歳になったしいいタイミングかなと!
誕生~高校まで
愛知県と静岡県のはざまのような土地で生まれ育ちました。
音楽の先生の母とエンジニアの父、国語の先生の祖母と検察官だった祖父、検察官の叔父と税務署勤務の叔母に育てられました。
絵に描いたような田舎の中流よりはちょい上の家系で父以外はみんな公務員の家系です。
母と父が忙しかったので祖母と祖父、祖父母と同居していた叔母夫妻にとても甘やかされて育ちました。
叔父は僕の親父の弟なのですが10歳の年齢差があるため叔母はおばさんてよりはおねーさんって感じでとても僕に甘かったです。(今も甘いです)
思えばこの叔母と祖母と祖父が僕の人生の価値観の多くを作りました。
祖父母の家が学校から遠く僕は絵を描いたり工作をして過ごすことが多かったのですが、何を作っても彼らは褒めるし喜んでくれるのです。
人のために何かを作る楽しさを教えてもらいました。
高校までは公立の進学校に通いそれなりに勉強もできるし、スポーツもできるという感じです。
高校2年の時に柳宗理のドキュメンタリーをみてプロダクトデザインに興味を持ち建築系の道を志し受験勉強をしました。
大学時代(1~2年)
とはいえ、芸大や美大への道は険しく僕は受験に失敗します。
建築系にいきたいなら浪人は認めないと言われていたので建築への道を諦め後期試験で大学に滑り込みました。
しかし大学にやりたいことはなく、建築系への夢はなくならず、仮面浪人することにしました。これが地獄の始まりです。
誘惑を断ち切れない自分への苛立ちや模試の結果の上がらなさに落胆し、大学へたまに顔を出すと孤独に苛まれだんだんと精神と体調に問題を抱え始めました。
2014年の夏頃に完全に体を壊して(慢性的な不眠、胃潰瘍、逆流性食道炎、鬱症状)仮面浪人は諦めました。
それからは何かをしないとと思って大好きだった映画を撮る側に回ろうと思い映画の脚本を描いて一人で演者を探してとって編集してをしたり、
CM作成の真似事したりして半年を過ごしました。
大学2年の春にバンドメンバーに誘われバンドを始めましたが、ボーカルのプロへのオファーとともに熱が冷めていきまた悶々とした日々に戻ります。
映画とってもCM作っても、バンドしても誰からも賞賛されないし、誰も喜んでくれない、なんなら才能ないとか駄作とか言われる始末で完全に創作するという行為に萎えていました。
大学時代(3~4年)
この時期にバンドメンバーの一人に声をかけられて起業をしました。
メンバーの実家を事務所にし訳もわからんままPHPでキュレーションメディア作ってSEOを頑張る日々でした。
しかし、この起業も失敗で資本の引き上げと一緒に会社ごと失い
普通の大学生に戻ったのでした。
もはやここまでくると悔しいとかも感じなくなっていて、とにかく何もできない自分への苛立ちがマックスでした。
就活そして留年からの就活
何も作れない自分への苛立ちが最高潮の中就活を迎えました。
なんとか内定をいくつかもらい社会人としての準備にワクワクしている最中、悲報が届きます。
後期最後の試験で点数が足りず単位が1単位足りなかったのです。(しかも自由要件単位w)
テストはベストを尽くした結果だったので就職するなって啓示なのだと言い聞かせ内定辞退を申し入れました。
そしてもう一度すぐに就活を初めて今の会社に入ります。
CTOはとても印象的で
「社会人にならなくていい。サラリーマンらしくなくていい。会社に属す感覚などなくていい。ただ優秀な俺の部下になれ。そしたら高みを見せてやる」
なんてかっこいいことを言って僕をハントしたのです。
それ以降は前に描いたnoteに続きます。
散らかった人生の棚卸しでしたが楽しんでいただけましたか?
僕は特にできることや才能はありませんでしたが、出会いとのめりこめるものがここまで持ってきてくれました。
出会いに感謝です。