近所のネコチャン日記3 : お別れは必然に
6月に入ってすぐのある日、梅雨入りの少し前。
早いのか遅いのか、1週間前のことだ。
ネコチャンが寝ているいつもの場所に、
突然貼り紙がされていた。家主によるものだろう。
「いつも可愛がってくれたみなさんへ」
「◯◯ちゃんは6月某日、お空に旅立ちました
9年間可愛がってくれてありがとうございました」
「お花・お供えはご遠慮ください。お気持ちはきっと◯◯ちゃんに届きます」
それはあまりに唐突すぎる訃報だった。
彼が虹の橋を渡ったと書いてあった。
ネコチャンは6月×日、亡くなった。
彼の死を知った瞬間、私は目頭が熱くなり、どうしていいかわからなくなった。
ネコチャンが死んだ。
この世を去った。
私達を遺して、先立って逝った。
死因はわからない。
病死か、交通事故死なのか、寿命なのか。
色々考えたが、そこの家主との交流はなかったため、結局はわからない。
なんにせよ一つ言えるのは、飼い主さんはもちろんのこと、同じように彼の死を悲しむ人間は多いだろうということ。あのポスターは彼を知る近隣のすべての人々に向けたものだ。
ネコチャンは少なくとも9歳だった。
元々野良だったのか最初から放し飼いにされていたのかはわからないが、気づけば近くの畑から駐車場のあたりに居座るようになった。
ネコチャンは人馴れしており、普通の野良猫とは違い近づいても全く警戒をしなかった。むしろ馴れすぎて、まるで自分が人間だとでも思っているようだった。
今思えば確かにそれは私が大学に入ったばかりの頃だったように思う。周りの人間に馴染めず眠れない夜に深夜徘徊をしていた時、よく悩みを聞いてもらったり、一緒に雨宿りをしたりして一緒に過ごしたものだ。
ある夏の晴れた日、私が虫を持って行くと捕まえようとして、その虫に飛んで逃げられてしまった時、
彼はまるで人間みたいに、心底悔しそうな声で「にゃーー!!!」と叫んでいたことが記憶に残っている。
またある冬の日の夜、寒さで縮こまるネコチャンを見かねて携帯カイロをタオルに包んで持って行くと、
彼はゴロンと横になって喜んでいた。
温かさでそのまま眠りついた彼の寝顔を見つめながら、
猫が見せるいろんな表情を見ることができたこと、そして誰かに喜んでもらえたことの嬉しさで満たされていた。
彼との思い出は語り尽くせば枚挙に暇がない。
それくらいこの9年間は沢山の思い出がある。
それこそ、1人の人間を相手にしているのと同じくらいに。
貼り紙の前に戻り、邪魔にならないよう軽く手を合わせRIPを済ませる。なにしろ、理解が追いつかなかった。
「お空に旅立ちました」
その文章の意味が27年生きて唐突にわからなくなってしまった。この記事を書いている今ですら、実感がない。
気がつくと後ろには制服を着た小学生の子供が、私の真似をするように手を合わせ立っていた。
長い間しみじみと思い出に耽るわけにはいかないので、足早にその場を後にした。
だが実のところ予感はしていた。
動きが徐々に緩慢になってきていたこと。寝ている時間が多くなってきていたこと。肉球が乾燥しきってガサガサだったこと。落ち着かない外の環境で一日の多くを過ごしていたこと。それだけたくさんの人に撫でられる分ストレスも感じていたであろうこと。
そしてなにより死の数日前、毛が薄くなり皮膚が見えるほどやたらと同じ位置を毛繕いしていたこと。
流石にここまで急だとは思わなかったが。
こうして言葉にして初めてわかるほどになんとなく、それでも確かに無意識下で感じていたことではあった。
それに最後に会った時の別れ際に彼が言った「にゃー」の意味。
普段はあまり鳴かない彼だからこそ、
死期を悟った彼が私に何か伝えておきたかったのではないか、というふうに思えてならない。
猫の命は人のそれよりも遥かに短い。
それにしても9年は短すぎるが、だからこそ私はこの時のために半年間、死に物狂いで準備をしてきたのだ。
彼が亡くなっても精神的に落ち込むことがないように。
彼がいなくなっても独りで生きていけるように。
ネコチャン、彼を心の拠り所として彼に依存しきっていた私が、彼から卒業して前向きに歩んでいけるように。
それは決して自分だけのためでなく。
彼を束縛せず彼から独立することが、ちゅーるをあげること以外で私が彼のためにできる唯一のことだった。
だから私はこうして知らない町に1人、引っ越したのだった。
あの街に私が住み続ける理由がないからだ。
あの道を通るたびに、喪失感に囚われたくはない。
悲しい気持ちになりたくない。
彼はもういない。
あの街でネコチャンに触れることはもう叶わない。
モフモフすることはできない。
けれど、彼が消えてなくなることは決してない。
彼との思い出を忘れない限り、彼は今も私たちの心の中で生き続けている。
ネコチャン、今までずっとありがとう。