駄文日記12

個性というのは同じ行動・同じ形式の中で過ごす内に、考え方や感性など、そういうディテールに現れると教わった記憶がある。

だから多感な時期に入って、自分だけがなんの取り柄もないように感じたりするのは、人間としては極々自然に訪れる時期なのだが、

私の場合は個性がどうこう以前に、何かが破綻していたような気がする。

気がするだけなので「当時の自分を語って欲しい」とお願いする機会があれば是非教えていただきたいものだが、そんな友人や知り合い達とはもうとっくに薄い縁になっているので、どうしようもない。

そんな青臭い思い出があるとするなら、特異性と平凡性に板挟みにされていた頃の話でも書いてみようか。

半ば醜い感情吐露と自己分析になっているが、とりあえず書くことにする。

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昔、私が欲しかった玩具(ゲームカセットだったと思う)を親に強請ったときに「みんなが持っている。同じがいい。」という旨を伝えたところ、叱られた記憶がある。

正直、怒られているという感覚に苛まれて、何も覚えていないが、
おそらく「他人軸に動かされてはいけない」という事を言いたかったのだと思う。

数年後、第2の性徴期に、私に似合うと思われる服を見せてもらった。真っ黒でパーカーで、背中にはお飾りの羽が生えている。私は「気を利かせたプレゼントをしようとしてくれている。」と気づいているが、それとは別にこういう服に憧れていた事を考え、その服が欲しいと伝えた。

その服は無事に家に届いた。しかし別の家内に伝えると「センスが子ども」「これを着て歩くのはちょっと痛々しい」と酷評だった。

「要らないなら捨ててしまおうか。」の言葉に、私はアッサリと頷き返し、その服は届いたその日のうちにゴミの一つとなってしまった。

私は捨てられていく服に見向きもしなかった。

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私は自分以外の全てに、とても寛容的に見ようとしていた。
浴びてきた教育の結果、どんなに価値観が違っていて、感性も考え方も受け入れ難いものだとしても、
個人的価値観の元に訂正しようとしたりせずに、「見逃す」ことで、保たれる平穏を受け入れようとしてきた。

口に出せばとてつもなく些細な事が多いとしても、「そういうもの」として受け流してきた。

それは決して、良いものではなく、
「他人は他人」で自分は守り通すという信念というより、むしろ「自他混合」を避ける為に使われたのだった。

例えば私が嫌いで避けてきた食べものを、私の友達は「苦手だから」「嫌いだから」とお残しが許されていた。
腹立たしいほどに羨ましかった。

当時の給食とは、絶対完食な制度で、自分だけが給食の時間のままストップし続ける事があったために、嫌いなものがあっても、かならず食べる必要があった。

食わず嫌いやアレルギー体質とは違う、一種のワガママなのだが、
「自分のワガママで他人に迷惑がかかる」
「1人が遅れるから全体が遅れる」
というような圧や、そういった事を悪とする方針に素直だったからこそである。

(この感覚自体は悪ではなく、効率性を鑑みた上であれば、真っ当な意見そのものなのだろう。ただ付いていけなかった人にとっては、ひたすらに劣等感を煽られる地獄だったりするのだが。)

私はそんな劣等感を煽られてきた側の人間でもあり、その上で誰かが劣等感に耐えられず泣いてしまっても、決して本人は悪くないと思う事にしてきた。

それでも、個人の好き嫌いで、その人の周りだけ状況が一転されたりすると、酷く許しがたい事に感じたりする。

嫌悪感を示した時に起こる出来事を避ける為に、あえて寛容的な態度をとって誤魔化し続けた。

これの末路がどうなったかと言うと、
頭の中では「他人に良い顔をし続ける偽善者」という思い込みが走るようになった。


私にとって偽善とは聖人の振りであった。


自分が受けられなかった待遇に、羨望の目が起こるのは、本能としては理に適っていると思う。

羨ましく思えば、特別視による嫉妬が起こる。
悪感情を剥き出しにすると悲劇が起こる。

こう言う場面で理性的な判断をするとしたら、
「そんな事があってよかったね」で終わる話なのだから。

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……以上の記憶が、棘のように残った記憶の、載せられる限りのものである。印象でみる態度をとにかく取っ払ったので、わりとつまらなく見える。

その上で分かったことは、感情を整理していくと、どうしても目を向けなければならないものがある。

それはいま、日記を書き連ねていて、少しだけとっかかりが掴めた気がする。

自分がある破綻を起こしている事に気づきながら、見て見ぬ振りをしていたり、
その先には必ず酷い事になると自覚していて、相手を感情的に貶したり、
合理に適っていないのに無為な行動を繰り返したり、

突然荒れて、自分にも理解できない行動をし始めた記憶の井戸の底にあったものを、ようやく見つけた気がする。

幅広くみれば、人間が起こす問題行動の裏にあるものの正体は、心理学ではもうとっくに解明されていたりするものである。


私は当初、普通を欲しがった。
普通の感覚とは何なのかも分からないままに、世間の基準に合うように自分を犠牲にしてきた感覚だけは残り続けた。

今になって内省してみれば、押さえ込んできた感情の数々があった。
その中で、あまりにも抑え込みすぎたのかと思えるほどに、重く存在していて広がりすぎた感情があった。

私の根底にあったのは『寂しさ』だった。

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寂しさといっても、私自身は孤独がそこまで嫌な訳ではなく、むしろあって当然だと考えている。

ただ当たり前すぎて、今まで気づかなかったのかもしれないと思う程には呆気なく思えた。

寂しさの一般論ではこう言われる。
「人は寂しい時、誰かに一緒に居てほしいはずだ。」
という普遍的な感情や思考そのものに当てられている。

寂しさといっても、人恋しさや繋がりとかのような、割りかし表面的なものではなく、そこにつながるような根深いものである。


調べてみたら、当てはまりそうな言葉があった。

仏教用語でいうところの『無明の闇』というものがある。

もしかしたら今までの違和感はこれかもしれないと思った。(無論、確証はない。)

世間的な普通に憧れてるとか、一般的にそうだから特異性に見られたいだとかそういう事ではなく、
「ただひたすら誰かに一緒にいて欲しかっただけ」に近いものが、肥大化してとんでもない事になった。

現実的に考えて難しいから、仕方ない事だと諦め続けるしかなかった事もある。

当時はもっと大切にしたいとも考えていた人達は、もう誰もそばに居ないし、戻ってこない。

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私は人としてかなりの屑だと思う。

酷い事をした。と考えている割には、ずっと自分のことしか見つめられないでいる。
他人が嫌な思いをしたと分かっていても、辛さがどういうものか理解していても、謝罪の言葉を使う事も出来なかった。

糧にして生きようなんて事は出来ないが
次はもっと人らしくありたい。

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