完璧と不完全のパラドックス
ゲーテルの不完全定理のことを言っているのではない。
或いは広義で言えば同じことなのかもしれない。
文を書くときもそうだ。
意見を声にするときだってそう。
己を完璧主義と呼ぶ当事者は、額面どおり”完璧”にこだわっている。
常に頭のなかでつきまとう完璧というボーダーライン。
それは目には見えないが確かに肌で感じる。解剖生理学的に言うと神経で感じている。
「このような状態であることを望む。或いは目指す。そうでなければ不完全も同然だ。」
中途半端が難しい。
完璧か、そうじゃないか、0か100の狭間で、その中身を凝らして見ると単に周囲からの評価を気にしていることに気づく。
プライドが高いからではなく、他人の目を気にしている故に・・・。
たとえ未来永劫に誰にも見られないかもしれなくても、何かをするという行動のもとには、”誰か”という審判を下そうとしている存在を意識している。
表面上は意識していないつもりでも、その思考になる原因を手繰れば行き着くのは他者がどう思うかに寄っている。
おかげで何も創造することができない牢獄の中のような縛りを常に感じながら生きている。
それじゃあ創造性のやり場は?
それは独りの時に訪れる。
誰の目も気にせず、干渉も受けずに、魂の源泉からなるひらめきを忠実に体現できる。
私たちは今、SNSによって手軽に承認欲求を満たせる時代に生きている。
誰かに見られているからこその原動力で表現ができる。
このブログだって、誰かに読まれることを目的として書かれているのは間違いない。
誰にも望まれないが、わたしがしたいと思う…というものとの対面が新鮮に思えてくる。
そんなことをなんとなーく思ったのでした。(フワフワ)