世界の印象

 私はよく、歩きながら、まだこんなもんじゃないよと自分に言い聞かせる。今はまだ決定的なストレートな苦情を面と向かって受けてないので解釈でどうにか和らげたり忘れたりできる日もあるけど、いつか決定的に破滅的な自分の中で誤魔化しようのない時が来るんじゃないかと思って、まだこんなもんじゃないよと自分に言い聞かせて歩いている。いきなり来られてもせめて何年も何年も頭の中で繰り返し再現されるような定番の記憶にならないように大袈裟にならないように内側から先に慣らそうと努力している。でも今年の二月に、面と向かって、大罪を犯してると言われて以来、具体的な言及の割合が日に日に増えていった。どう考えてもつまらない公園のジメジメしたスペースに行って休憩しても私が来るタイミングを狙ったかのように地域の有力者みたいな人がわざわざ近くまで来て咳払いをして通り過ぎたり、アパートの中は落ち着くけど、私が廊下を通ると向かいの家がわざと窓をバタンと閉めたりするが、この先はその程度では済まされない。逆にガソリンを撒くことを期待されているのではないかとも思う。一年はもたないだろう。それだって長い。昔住んでいた家を見に行ったら、フェンスが囲んであって、いつ頃気づいたのだろうと記憶を辿っていったら、二十歳ぐらいの時、ジクジクしたのがいっぱい飛んでて苦しい、と私がバイト代と同じくらいの金額でタクシーに乗ってバイトに行っていることを諌められてそう返したのを思い出した。ジクジクが絡み合っているフェンス越しの風景も思い出した。それでもつないできたのは、これから強くなっていくもんだろうと絶対的に期待していたからだ。もう十分こなした。一周目になかった何かが起こるかもしれない、欠損が埋まるかもしれない。それを信じきる体力はない。バランスを調整する全体的な仕組みなんてものも存在しない。みんなTさんのことを邪魔とか要らないとか遅いとか言ってて、荷物をうまく運べない時には誰も助けないで遠くで見て笑っている。もし介入があるのだとしたら、そしてもし順番待ちだとしたら、どうして私が優先されるのだろう。Tさんが過去に人殺しでもしていない限り、私に回ってくることはない。では、なんだったのだろう。ちりが軽く着地してまたすぐに飛んでいっただけのような。ちょっと立ち寄っただけのような。さようなら。


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