子どもを産みたくなかった私と産んでみた私
最近、月岡ツキさんという方の記事の中に、
「自分もそうだった」そして「今もそうだ」と感じる文章を見つけた。
遅くとも10代の頃から、私はこの感覚、この気持ちを常に抱いていた。
周囲の友達は、ごく自然に、当たり前のように「お母さんになりたい」「子どもが欲しい」と言っていた。
ほとんどの人が理性でそう思っているわけではなく、本能的に感じている願いのようなものだった。
でも私には、この本能の部分が欠けていた(あるいは感じないようにしていただけか?)
「子どもが欲しい」と思ったことは一度もなく、出産を経た今でも「子どもが欲しい」という感覚がわからないのだ。
しかも、本能的な想いがないだけでなく、10代・20代の頃は
生きるという大変な道を新しい生命体に与えてしまうなんて、そんな恐ろしいことできないと、むしろ積極的に「子どもを持たない人生」を歩もうとしていた。
20代半ばで結婚した時も、夫に対して「私は子どもを産むつもりはない」と断言していたし、そんな私を受け入れてくれた彼と結婚した。
ただ、この結婚生活は3年で終わりを迎えた(理由を書くと、それだけで1つの記事になってしまいそうなので割愛)。
そして、離婚後は「もう一生結婚しないだろうな」と思いながら、生活していくことになる。
同時に20代後半での仕事の変化、新しくできた人間関係、離婚を通して変化した自己理解と世界によって、「絶対に子どもは産みたくない」という強固な想いは消え失せた。
その頃、友達に「子どもは欲しくないの?」と聞かれて私が言っていたのは
「本当にどっちでも良い。もし万が一、今後出会いがあって、その人が子ども欲しいと言ったら産むかもしれないし、欲しくないと言ったら産まない」だった。
考えに変化が生じている一方で、ずっと変わらない私の意識、それは
子どもを産む、産まないは、私あるいはその配偶者(彼氏)の判断によって決めることができるだった。
でもよく考えたら、これってすごいことではないだろうか。
詳しくはわからないけど、今のように、妊娠・出産の仕組みがまだ明らかになってなかった頃、そして安全な避妊や中絶の方法・技術がまだ確立されていなかった頃、
子どもを産むということは、人の意思が介在できない領域のものだったのではないかと思う。
それが科学技術の発展によって、妊娠・出産というものは私たちの意思で決断できる出来事になった。
それは悪いことだとも良いことだとも思わない。ただの事実。
でもこの事実によって、私たちはより悩むようにもなったし、人生の方向性を自分でコントロールできるようにもなった。
そして私もそんな悩みを持ちながら生きる1人の人間。
現在の夫と出会った時も、積極的に子どもを持ちたいという気持ちはなかった。
ただ、前述した通り、「私はもう決めない。相手に決めてもらう」という良くも悪くも他人任せな状態だった。
そこには、これまで自分で決めた道を一生懸命歩んできたし、けっこう満足している。ここから先は想像していなかった別の人生を歩んでみても良いのかもしれないという考えもあったように思う。
私の気持ちを伝えた時、現在の夫は言った。
「僕は、子どものいない人生なんて考えられない」と。
衝撃的だった。
そんな風に考える人がいるんだと。いや、確かにいるのは知っていた。
昔から「絶対にお母さんになる」と言っている友達はいたし、子どもを持つこと=幸せなことだとみんな思っていることはわかっていたから。
でも、私の目の前にいる、運命を感じている人が、そんなことを言うなんて想像していなかったのだ。
衝撃を感じると同時に思った。
「こんなに強く子どもが欲しいと思っている人となら、葛藤も育児も乗り越えていけるかも」
「この人がお父さんになって、子どもと一緒に幸せそうに過ごしているところが見たい」
と。
その後、結婚・妊娠・出産を経て今がある。
正直、妊娠中は嬉しさよりも心配・葛藤のほうが大きかった。
こんな世界に、新しい命を連れてきてしまった・・・と。
幸せにしてあげられるのだろうか・・・と。
自分が親になることを意識してこなかったがゆえ、どう子育てしていけばよいのか想像ができない・・・と。
そして今も子育てに関して葛藤は尽きない。
でもこの前、少し救われるような体験をした。
この話は本当なのか、息子の創作なのかよくわからない。
でも、「思ってたより、楽しい!」という言葉を聞けて、私はとても救われた気がしたのだ。
子どもには、自分の幸せは自分で見つけられる人になってほしい。
お母さんは今、幸せだよ。