自分の「動詞」について考える
あきやさんのこの記事を読んで「自分の中に飼っている揺さぶられない動詞」について考えた。
はじめに
最終的に「わたしの死生観」の話なので、いまは読むタイミングじゃないと思ったら目次だけで閉じてほしい。
あと客観的に読むと話が飛んでるけど、この人はそういう思考回路をしているということで。
連想する
まず思いついた言葉から始めようと、わたしがよくする行動から考えてみた。
・「これはどう?」と見つけてくる
・「こうしたらいいんじゃない?」とアイデアをだす
「選ぶ」「提案する」「探す」
→ 自分の動詞という感じがしない
「ひらめく」「思いつく」「浮かぶ」
アイデアを出すから連想するもの。
「ひらめく」
→「閃く」の鋭く光るニュアンスは違う
→「風にひらめく」のような意味に違和感はない
「浮かぶ」
→ 「水に浮かぶ」のイメージに違和感はない
「漂う」「流れる」「泳ぐ」
「浮かぶ」と似たところから探してみる。
「流れる」という言葉から感じ取るものがある。
→「流される」ではなく「流れる」
→「流れる」ことを自分で選んでいる
「泳ぐ」は能動的すぎるので違う。
妄想の世界
自分がいる場所を想像する。
そこは草原で、晴れてる日もあれば曇ってる日もあるけれど、いつも風が吹いている。
わたしは流れていく風を見つめている。そこに時間を感じている。現実世界で生きる人々を、すこし遠い場所から眺めている。
20年前は都会のビル風のような強風に置いていかれそうだったけど、いまはちょっと強いくらいの風で立ち止まっても置いていかれる気持ちにはならない。
自分の「動詞」を考える
妄想の世界へ行ってみたら、自分が流れるのではなく周りが流れるのを立ち止まって見ていた。
「眺める」「見つめる」「観測する」
じゃあこっちなんじゃないのと思ったけども。
「眺める」「見つめる」
→ 揺さぶられない動詞ではない。
「観測する」
→ いまは違うけど「観測者」という職業が今までになく嵌る感じがある。コンセプトに置けるかもしれないので自問自答のめもに書き留めた。これは発見。
再び妄想の世界
「流れる」のは水の中じゃなかったの?と思ったので、そういう前提で想像してみる。
水中のわたしは3〜5mくらいの深さのところにいる。水面は光が反射して揺れている。息は苦しくない。
これはわたしの内側だ。
水深がどれくらいあるのかはわからない。振り返ってよく見たことはない。もしかするとすごく深いかもしれない。すごく深かったとしたら真剣に向き合うのは怖い。
文字通り「思考の海に沈む」ように、ゆっくりと水面が遠ざかっていく。
贅沢な人生
※ 唐突に「死生観」の話
わたしは生きるにあたって「なにもしない」ことを自分に許している。それは成果を出すことからの逃げかもしれないし、何も成し得ないことへの負け惜しみかもしれない。
けれど人生において時間を無駄にすること以上の贅沢はないと考えているので、最後には「なにもしなかった」と同時に「まったく贅沢な人生だった」と言いたい。
そんな生き方を後悔する日が来るかもしれないけど、いまのところ振り返ってみても「なるようしかならなかったな」と思っている。
揺さぶられない動詞
このやや諦めたような人生観が「流れる」という「自分の中に飼っている揺さぶられない動詞」なんじゃないかと思う。
「揺さぶられない」と言っているのに捉えどころのない「流れる」を飼うわたし。芯のないことを選んでやっているところに芯があるのではないか、と肯定してみる。
時間は追い風
進む方向が未来で背中が過去というイメージは同じでも、前から吹く風に立ち向かうように生きる人もいる。
けれどわたしにとって時間は追い風で、立ち止まることはあっても立ち向かうものではないらしい。
風に背中を押されて、流れるように生きている。
余談
「揺蕩う」
途中で「揺蕩う」という言葉も気になったけど、辞書的には迷うのニュアンスが強かった。わたしの中では「揺蕩う」に「光」や「日差し」が紐付いて木漏れ日のような穏やかさなんだけど、わたしの動詞ではなかった。
水面を反射する光が天井に映るような「揺蕩う」のイメージは好きだなと思ったので、それは箱にしまっておこうと思う。
本当に動詞か
「流れるように」としたら動詞ではなくなるのでは…という疑問は箱の奥のほうに隠しておきたい。