違和感手帳17₋慣れについて

2024.2.16


問うということはとても疲れる。アンテナがはられ、それが頭につながって、考えるという過程がある。
ある人は、疲れの指標に能動で生きるか受動で生きるかというとらえ方をしていた。近い。
感覚のセンサーというかアンテナの向きや用途が人・あるいは種類によってそれぞれだからか、意識してはじめてできる人もいれば、意識の前に起こっている人もいる。比率も多分ばらばらだろう。

動く事と考える事が同時に起こっている。
後者の成分が強めであれば、油断すると日常の中が問うことであふれていく。
自分の場合ひとつひとつ拾っていたらままならないので、気にしないふりをしているうちにスルースキルが身に着いていた。
ところがそのうち落ち着かなくなる。問うということ、立ち止まること自体がエネルギーを消耗すると考えていたが、それらを無視し続けることもやはり自分には負荷らしい。(ここでもバランスの問題ではある。)

スルー出来るということは、慣れるということじゃないかと思う。

素直でいつづけるのはどうやらとても難しい。
演じるという人がいた。メッキを塗るという人もいた。自覚があるかないかの違いだ。

違和感を大事にするという感覚を私は苦しくても失いたくなかった。
自分にとってなくしたくないはずの感覚にいつの間にか慣れが生じて、その理由に思いを致したとき、思い当たった。

慣れというものは、感覚が鈍磨になったり、失われていったりということでは決してない。むしろそういった柔らかい感覚をすり減らすことなく守り、保つためにこそある鎧みたいなものなんだろうなということだ。

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