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違和感手帳14₋違うということを真剣に考えた
2023年11月23日
考えていた。
例えると
空がきれいだねと共感したいのに
同じ青さで見えないどころか空があることすら気づかない。
その分相手は目がよかったり背が高かったり卓球が好きだったりする。虫を見ているとか、花をめでているとかではなくて。
そういう感覚のずれはおおよそ片方だけが自覚していて、もう一方は気づいてもいない。
その埋めようのない差にまた一層悲しくなる。
いい、悪い、という問題ではない。
違う
ただそれだけだ。
色々な人がいる。というかもはやいろいろな「価値観」がなぜか人という似た形をして存在している。
ある人と会話していて、「HSP(繊細さん)ってなんでもかんでも受け止めすぎるというよりは、例えば視覚のセンサーだけが突出して働くとか、そういうこともあるんじゃないか」ということを聞いた。
帰りがけ、あの話とっても納得しましたといったら、「その究極系が人の名前なんだろうねえ。そんな感覚を持った、それが○○○○という名前の、人間。」といわれて衝撃だった。なるほど。それが、名前。つまりはみんな病気なんだな。○○○○という名の、山田花子という名の、田中一という名の、病を患った人間。平たく言うと、「みんな違う」ってことなんだろうけど、名前をそうとらえたのは初めてで、そしたらずいぶん気が楽になった。
病気って多くの人にとっては非日常だろうと思う。つまり不本意に生じた普通ではない状況。でも、いろいろな暮らしを見るとわかる。誰かにとっての日常は、誰かにとっての非日常なのだということ。それぞれが同じと信じ描く日常さえも、重なり、異なり、存在する。
自分ではどうしようもない感覚、価値観というものはきっとある。どれも、それぞれにとって当たり前で、誰に対しても普通なんかじゃない。
愛とは、相手に思いを馳せることだ、と思った。
違いから始まっている存在の、それぞれの喜びや幸せは、一体どんな形で共有することができるんだろうか。