違和感手帳8₋これは社会課題かどうか

2022年12月31日

振り返り📝


1年前期:大学生が周りにいない
1年後期:大学構内で迷う
2年前期:記憶とぶ。人間やめる。
2年後期:なんかをやりたくなる
3年前期:友達増える。一緒になんかやりたくなる。


10月16日に考えていたこと①~③


~医学生と社会との隔絶という社会課題の解決は、金になるのか~

①「医学生と社会との隔絶」は、社会課題である。
②社会課題である以上、解決することに意義があるはず。
③意義がある=金になる、のだろうか。


①の背景・前提

医学生からの視点
いわゆる「エリート医学生」が、ふと「なんのために生きているのかわからない」と悩む場面がある。

そもそも、

医学は(自らを含んだ)社会を幸せにするための手段である。

医療者とは、医学を手札として社会の役に立つ人たちである。

能動的に学んでいれば、現実や状況に溝・ギャップ、あるいは違和感があれば、日々考える中で他者と語り合うなり、行動に移すことができる。

ちなみに私は、怒涛の2年生を経て、医学教育の中にもう少し「やまいという語り」を体験する機会や、模索する時間的ゆとりがあればいいのに、と思っている。(つまりは実習?)一方で、その詰め込みが将来的なレジリエンスになるということもある程度理解できるし、「語り」は数値化できない以上教育に組み込むのは難しそうだ、というのもなんとなく感じる。

そういいつつ、「まあでもなんか楽しく生きられてるからいいわ!幸せ!ありがとう!」と思っている。

けれど、この2、3年、生きる意味が分からなくなったという友人が数名いたことを知る機会を経て、さすがに思うところがあった。医学部という職業訓練学校では、医学という手段の獲得が目的化しているので、時として医学生自身が、医学という手段を自分で選んだ、という能動的な意識なくしては、「なんのために学び、ひいては自分が生きているのか」分からなくなって苛まれすらするらしい。ギャップ云々の前に、生活の中で、医学以外のことが、ポジティブでない意味で、考えられなくなったようである。

私にとっての社会は

私にとっての社会は公立中学校だ。私が大学医学部進学をめざし学ぶ隣の席では、茶髪のヤンキーがタバコを吸っているとかいないとかだべっていた。そんなヤンキーの生活が、エリートに想像しづらいとしたら、将来的に医療者と患者の間にある医療に齟齬が生じそうだと思ったし、互いに不幸ではなかろうか、と思った。だから、「医学生と社会の隔絶」は医療というインフラに関する社会課題だと感じたのだ。

こんな話をしたところ、N先生より、「医師になりさえすれば、何とかなる」といっていただいた。つまり、強制的に社会にさらされる中で、ひずみは整っていく、と。さらに、確実に役に立っている実感、が得られるから、「なんのために」と悩むことはなくななるとのことであった。それをあえて言語化するのなら、「医学という手段で社会の役に立つっていることを必然的に自覚できる」ということだと思う。

資本主義社会における共通の価値、つまり、解決することはお金になるのかどうか、という点においてはまだ議論が尽くせなかったが、この1年で前提の考えは、深まるところが大きかった。

つまり何が言いたいかというと

「学生生活さえ乗り越えて医師になれば大丈夫」ということ。考えすぎなくていい。重ねるならば、それまで自死を考えた、いつかの友人たちをこれから、少しでも減らすには、本物を見る、ともに体験する時間がやはり本当に重要だろう、ということである。

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