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すぎの木の香りに包まれて

職場の最寄駅は、東急東横線の『都立大学』である。

このくらいの情報のみで個人が特定されてしまうほど有名ならばむしろ光栄であるし、逆に言えば、これで特定されるのなら既に他の個人情報が漏れているということであって、もはや食い止めることはできまい。ここは割り切ろう。


さて、その都立大学駅の駅前に、『すぎの木』という喫茶店がある。通りに面した建物の二階に、穏やかな時間の流れとともに収まっている店だ。いつか行ってみたいと思いながらも、一度も入ったことがない。理由はいくつかあるのだが、何よりもこんな若者が入るには敷居が高いと思っていたことが大きい。通りから店内の様子を見ることはできないが、そこから醸し出される雰囲気には、高級感があふれている。

しかし、今日、意を決して昼食を『すぎの木』で摂ることにした。こじゃれた装飾の施された階段を上っていくと、少し時代を感じさせる小さな電飾スタンド看板が目に入る。開いたままになっている入り口のドアを抜けると、すぐ右手前にレジ、その奥にカウンターが続いている。カウンターには二人の男性が座っていて、何かを飲みながら歓談している。外から受けた印象の通り、穏やかな空気が流れていた。ウェイトレス(現代の趨勢からすればジェンダーフリーの呼び名で書くべきなのだろう。ただ、差別的な意図なく「ウェイトレス」と素直に呼んでいた頃の雰囲気の似合うお店である)の方に「窓際のお席へどうぞ」と促されて、角の席に座った。店内を入って左手はテーブル席である。4人用テーブルを1人で使用する優雅さである。


昼休みの残りが思ったよりも短かったのと、空腹であったのとが相俟って、注文を決めるのには殆ど時間がかからなかった。


改めて店内を眺める。入店前に抱いていた高級なイメージを崩さぬままに、訪れた人に背伸びさせない自然さが漂っていた。なぜもっと早く来なかったかと後悔したほどである。


しばらくして目の前に運ばれてきたのは、ハンバーガーとレモンティーである。ハンバーガーには、ふかしたジャガイモとミックスベジタブル、卵が付け合わせられている。文字にしてみると非常にシンプルに思えるが、受ける印象以上に充足感は強い。お腹はもちろん、心も満たされるという感覚だ。


食べ終わって店を出たとき、「午後の仕事も頑張ろう」という気持ちが湧いてきた。語らずしてひとの心を動かす――そんな素敵なお店に出会えた昼休みであった。


(文字数:1000字。久しぶりにエッセイらしいエッセイになりました)

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Hal
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