幸の神(サイノカミ)信仰とインドの神々
キリストや仏陀、ヤハウェといった「人格神」が生まれる以前の古代の宗教においては、世界各地で太陽や月、熊やフクロウといった自然界の存在が神として崇められ信仰される対象でした。人間に恵みを与え、時に災いをもたらす「自然神」が古代人や原住民たちの畏怖すべき神でした。蛇神オオモノヌシが鎮座する三輪山も古代の太陽信仰の聖地でした。コミュニティの拡大にともない山が直接拝めない土地へ移住した村人たちは、共同で大きな石神を祀り、家々ではその依代として神棚に石を祀りました(縄文時代の岩石信仰や出雲族の岩信仰など)。
原始時代から古代中期までは、人類のコミュニティは母系家族制度でした。それは、健康な子を産み育てることが極めて難しく、コミュニティを維持するためには母親が娘や孫娘を大事にし、家から離さないことが求められたからです。子孫を繁栄させコミュニティを守るために、出産、授乳という女性の果たす役割が何よりも重要視されました。自ずと家の後継ぎや財産の所有権も女性が継承し、娘は婿を取り女の子を産むことが望まれました。そのため、健康な子供を出産し子孫を残してくれた先祖もまた自分たちのコミュニティや家族を守ってくれる神として崇拝する対象になりました。
母系家族制の中にあって確実な先祖として遡れるのは男親ではなく女親でありその母である祖母の血統だったため、古代の遺物の中で祀られていた対象も当然のように女神像が多くなりました。縄文時代の地母神などふくよかな女神像を単に大地や農業の神に矮小化するのは現代人の偏った解釈です。女神像には出産や育児というそのコミュニティ全体の存続に関わる切実な祈りが込められていたことを理解しなければ、真実の古代史は見えてきません。女神像の姿に裸体が多く、乳房や腹部、腰回りや生殖器を強調する造形が多いのも、子孫繁栄の源である出産の苦しみや危険性、授乳のための滋養の苦労を想起させるためでした。
BC2000にアーリア人の侵攻で国を追われたインダス文明のクナ国王と母系社会のドラヴィダ族たちは戦乱の激しい南方を避けて北上し、安全なゴビ砂漠を抜けてバイカル湖周辺に住んでいたブリヤート人商人たちに導かれ黒龍江(アムール川)を下り、その後は樺太を経由して北海道に渡り本州まで到達しました。彼らは縄文人として本州北部に長く居住しましたが(山内丸山遺跡)、その後日本海沿岸を南下し新潟から能登を越え最終的に出雲地方まで到達、我が国初の広域王国「出雲王国」を築きました。山陰地方には古代インドの風習を受け継いだ文化が今も残っています。
母系家族制の農耕民族だったドラヴィダ族の家庭では、女たちの配偶者は夜だけ別の家から通って泊まりに来る妻問婚でした。これはまさしく平安時代の呼合い(よばい=夜這い)と同じで、男は夜道が明るい月夜にだけ実家から妻の自宅に通い朝帰りする婚姻生活です。万葉集や平安時代の和歌にも男性の訪問を心待ちする女性の歌や、恋人との逢瀬を邪魔する夜明けが恨めしいと嘆く歌が詠まれています。日本古来の婚姻形態はインドのドラヴィダ族から伝わったものでした。
ドラヴィダ族を日本に導いたブリヤート人が住んでいたバイカル湖周辺は蕎麦の産地で彼らは蕎麦を食べていました。蕎麦も陸稲作同様にドラヴィダ族の移民たちと共に我が国にもたらされていました。彼らが最終的にたどり着いた山陰地方も出雲そばが有名ですが、出雲族がその後移り住んだ長野地方や東北地方、山内丸山遺跡の青森も全国有数の蕎麦産地です。出雲王国を追われた大彦一族が落ち延び建国した日高見国の拠点となった常陸国でも常陸そばが有名です。縄文人や出雲族が各地に蕎麦をもたらしている足跡は、Gm遺伝子研究による「日本人バイカル湖畔起源説」とも符合します。
インドの神には先祖崇拝や子孫繁栄を重んずる神が多くありますが、出雲地方から長野地方に伝わった「幸の神(サイノカミ)信仰」も夫婦和合の象徴で子孫繁栄の神さまでした。幸の神は夫婦神像として村の拠点に祀られたため、のちに道祖神と習合していきますが、本来はそのコミュニティの子孫繁栄を守護する日本初の人格神でした。その後、家や村や地域として祖先神を祀り崇める風習は全国に広がったため、のちの時代の神社の産土神も幸の神がルーツと言えます。
ヒンズー教には主神をシヴァ神とする教徒、ヴィシュヌ神とする宗派、また神仏習合よろしく同一神と捉える派閥もあります。メディア、芸能、学会、産業など多くの人々に影響を及ぼし民衆を動かす力を持つ勢力はその時代の支配者と結びつきます。日本の廃仏毀釈や神仏習合もそうですが、多くの民を従える力を持つ宗教もまた都合良く支配層が利用し、その都度崇拝する神々も入れ替わります。クナ国のドラヴィダ族はシヴァ神を信仰しました。日本に渡来したドラヴィダ族の子孫である出雲族が体系化した幸の神の男神「久那斗大神(クナトのおおかみ=クナ国の最高神の意)」は、ヒンズー教シヴァ神の本地垂迹だったのです。
久那斗大神の妃は「幸姫の命(さいひめのみこと)」と呼ばれる子孫繁栄の女神です。母系社会の最高神なので女神ですが、前身は古代に崇拝された自然神の太陽神です。のちの時代にこの幸姫の命が大和地方に伝わると本来の太陽神として「天照大神」と呼ばれました。これに息子の「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」が加わり古事記の「造化の三神(天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神)」のモデルとなりました。神皇産霊(かみむすび)は幸姫命(伊邪那美命)を祀る「神魂(かもす)神社」の名前に通じ、高皇産霊(たかむすび)は猿田彦の別名「鼻高彦」に通じます。何より古事記、日本書紀で〝大神(おおみかみ)〟と呼ばれるのは、久那斗大神、天照大神、猿田彦大神の三神しかいないことが、幸の神の三柱が日本最古の最高神だったことの証左です。
子孫繁栄や先祖崇拝を重視するインドのヒンズー教では男女ペアの夫婦神像がポピュラーで、シヴァ神とパールヴァティ、クリシュナ神(ヴィシュヌ)とラーダーなどインドの各家庭の神棚には夫婦神像が多く見られ、これに息子のガネーシャ神を加えた家族神像を家内安全や子孫繁栄の象徴として拝みます。幸の神の三柱の猿田彦大神の「サルタ」とはドラヴィダ語で「出っ張り」や「長鼻」を意味します。鼻の長いガネーシャ神は、日本では修験道の開祖で出雲族の役小角(えんのおづぬ)が「鼻高行者」として取り入れ、のちの時代の山岳仏教では鼻の高い天狗の信仰に変化しました。
子供の生存率の低かった古代においては、生殖器は子孫繁栄をもたらす大切なものとして神聖視されました。シヴァ神の御神体はリンガムという男性器を模った先の丸い円筒石で、インドのシヴァ寺院の本殿には必ずシヴァ・リンガムが置かれ、礼拝者たちは香油やミルク、花、灯明などを捧げます。リンガムが鎮座している台座は女性器を象徴するヨーギと呼ばれ、この組み合わせで男女和合、男女の神が一つになることで完全になるというヒンズー教の教義をあらわしています。
侵攻勢力側のアーリア人はヒンズー教徒の男根崇拝を単に野蛮なものとして忌避しましたが、生殖器を神聖視する風習は世界各地に見られます。ヨーロッパでも自然の造形を女性や男性のシンボルとし、谷や穴や舟は女性名詞、角や根や剣は男性名詞になりました。島根県にはシャモジが男性器を表す「キンニャモンニャ」という民謡の踊りがあります。諏訪地方に伝わる古代神「ミシャグジ(御左口神、御社宮司、御作神)」という自然神の御神体も男根のような石棒で「おしゃもじさま」とも呼ばれました。また、祭祀に使われた縄文土器のなかには土器全体の形が男根を模っていたり、取手などの装飾に両性和合した生殖器の造形を施し子孫繁栄を祈りました。
鳥取にはシヴァリンガムのような御神木を若者たちが担いで巡る「花湯祭り」や、新潟にも巨大な男根形の道祖神の上に女子が担がれ安産を願う「ほだれ祭り」があります。インドの経典カーマスートラやミトゥナ像もそうですが、古代人の性表現を現代人の感覚で羞恥心や好奇の目で見ているだけでは古代の真実は見えてきません。古代史を科学的に探究しようとする、ほかでもない古代人の子孫である我々は、その時代を懸命に生き、命がけで子孫を残し我々に繋いでくれた先祖たちに敬意を払いながら、その性への価値観を読み解く洞察力や探究心が必要です。
これまで見てきたように、縄文時代の風習や日本古来と言われる神事など、特に古代から伝わる日本の伝統文化の多くは、インダス文明まで遡る古代インド由来であることがよく分かります。その後も弥生時代や古墳時代から飛鳥奈良時代以降も断続的に半島や大陸から王家の子孫や騎馬民族などさまざまな民族が日本列島に渡来帰化してきた歴史を見ても、太古の昔よりこの地球に住む民族たちは、ユーラシア大陸を横断し海を渡りながら、あらゆる地域で異種混交して子孫を繋いできたのです。現代人が現在の国境という、かつての一部の支配層同士で人為的に取り決めた境界線に拘り、ことさら彼我の違いをあげつらい対立する姿は愚の骨頂としか言えません。
視野狭窄に陥った民族同士の対立紛争を利用して、一部の先進国の特権階級や支配層たちが暴利を貪るというのが、19世紀以降の世界中の戦争や地域紛争のお決まりのシナリオです。もうそろそろ地球人類は、これまで繰り返されてきたこの愚かなスパイラルから抜け出す時ではないでしょうか。善と悪、白と黒、男と女、若者と老人、自由と統制、右と左…分断や対立に巻き込まれそうになった時には視野を高く広く持ち、本当の敵は目の前にいる対立相手などではないことを知るべきです。歴史観や人種差別などによる民衆の妬みや怒り、戦争や疫病への恐怖を巧みに煽動しながら、漁夫の利を得ている支配層の偽りの正義に刮目すべき時ではないでしょうか。