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2005年4月28・29日~入学から3週間で亡くなった大学生

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兵庫県警から発表される死者の数は10人単位で増え続け、100人が目前だった。時事通信のメール速報で私の元に届く。未曽有の大事故になってしまった。

現場ではマンションにぶつかってつぶれた車両の捜索が続いていた。事故発生から2日後の4月27日朝、行方を探していた大学生の2人が遺体で発見されたと、警察から発表された。

事故を起こした快速列車には大学生が多数乗っていた。大学生の死者も連日発表されていた。「仲良し2人組が、同じ大学に進学して、この日も同じ電車で大学に向かったのに、入学して1カ月もたたないうちに、夢を絶たれてしまった」というストーリーは、紙面で大きく扱ってもらえるのではないかと思った。

警察が発表したのは、大学生2人の名前と住所だけ。この2人を結びつける背景を知っている記者は、おそらく自分しかいなかった。

会社からの電話を受けて、発表された住所に行くと、お母さんが玄関口で、次から次に訪れる記者たちのインタビューに淡々と応じていた。

私は他社の記者と一緒に話を聞いた後、他社の記者が全員引き上げるのを待った。一人になったところで、改めて女子大生のお母さんに話を聞いた。

「仲の良いお友達と、一緒に乗ってたんですよね」

「はい」

神戸総局や、地方から応援取材に来た若い記者が数人、私の下に着いた。ミッションは2人の関係を描き出すデータを補足取材すること。それも他社の記者に気づかれないように。携帯電話で応援の記者に指示を出した。「『不在ですね、出直しましょう』と言って帰るふりして、また戻ってきて」

遺族は2家族とも取材に好意的で、入学式のときに2人が桜の下で、笑顔でピースサインする記念写真も提供して頂いた。その写真が社会面のトップになった。

特ダネは実った。2人の死亡を伝える記事にそこまで盛り込んだのは自分の会社だけだった。大阪だけでなく東京でも社会面のトップになった。他社が翌日の夕刊でわざわざ後追いした。

女子大生の母親を後日、お花を持って訪ねた。「記事、とてもよかったです」と感激していた。娘の短い人生を、いちばんの記念写真とともに、新聞で紹介されたことを喜んでくれた。遺族が一から自分自身で、しかも短時間で書くことは難しかっただろう。遺族取材班に巻き込まれて、どうしてこんなことをしなければならないんだろう、という負い目に捕らわれていたが、被害者取材が当事者にとって役に立つ側面もあるのか、と知った瞬間だった。

「でかした」という言葉を上司も言う余裕はなかっただろうし、やっぱり怒られてばかりで誉められた記憶もない。ただ、おそらく大阪に来て初めて上司から「功績」を認められた私は、被害者取材班から離れられなくなった。

つづく

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