手紙を書く~取材に応じてくれる人を掘り起こすために
(記事一覧)
時間の経過とともに、遺族の心境も落ち着いてくる。それは、取材をする側にとって有利にも不利にも働く。でも、発生直後に泣いている映像だけ撮って、現場を荒らすだけ荒らして去っていくワイドショーのような火事場泥棒的取材で終わらせるのと、その後も長期にわたって関係を築いていくのは、圧倒的に後者の方が労力を伴う難儀な作業だ。
その作業は、手紙を書くことが中心になった。すぐには取材に応じてもらえなくても、落ち着いたところで読んでもらい、趣旨を理解してもらい、閉ざされた扉を少しでも開いてもらえないかという作業だ。
新聞記者はニュースを追いかけるのが仕事だ。107人が亡くなった大事故は、発生当初、紙面やテレビの「尺」を埋め尽くした。だが、1カ月も経てば落ち着いてくる。新しいニュースが次々、その上に積み重なり、上書きされていく。専従取材班として固定されると、報じる側はその後、1カ月、3カ月、半年、1年といった「節目」を狙って大展開を試みることになる。
迷惑を承知で呼び鈴を押す。大抵の場合、出ない。出ないことを予期して、あらかじめ書いていた手紙をポストに投函する。あとは返事が来ることを祈るだけ。取材班で分担して、そうした作業を繰り返す。
手紙の中身に正解があるわけではない。誠意が通じるよう、ペンと便箋を選び、相手の現況に精いっぱい想像を巡らせ、いたわりの言葉とぶしつけなお願いを、手書きで丁寧に書くしかない。誠意が通じたからといって取材に応じてもらえるとは限らない。取材記者が入れ替わり、担当を交代することもある。それでもチーム取材だから、いつか実ればそれでいい。農業に例えるなら、収穫するのが自分でなくとも、立派に育つよう種を撒いて水をやる作業と言える。
事故から1~2カ月後の梅雨の時期、ある遺族の住居を訪ね、いつものように手紙を投函した。その後もまったくなしのつぶてだったので、事故から1年を前に、応援で入った別の記者に担当を変わった。応援記者は、その遺族の心を開くのに成功した。
応援記者によれば、その遺族は「私の手紙を読んでとても心に残っていたが、当時はまったく心の余裕がなく、反応できなかった」という。また「記者からの手紙は他社からもたくさん届いていたが、中にはひどいものもあった」らしい。一体どうすれば「ひどい手紙」が書けるのかはさっぱり分からないが、反応がなくても自分の手紙を読んで、選び取って心に留めていてくれたことはうれしかった。
手紙の取材依頼でもう一つ記憶に残っているのは、娘を亡くした初老の女性のこと。当初はとりつく島もなかったが、夏ごろに手紙を投函したところ、ある日突然、お礼の電話を先方からかけてきた。「お手紙ありがとうございました。大変、心に残りました」と言われたときは、報われた気がした。
その1週間後ぐらいに、意を決して、訪ねて行った。地元で韓国語教室を開いていたが、事故のショックで休業していた。相手は歓迎してくれ、お茶を飲みながらひとしきり雑談に応じてくれた。生まれてからの半生や、その並大抵でない苦労の人生。ぜひとも取材を、とお願いしたが、笑って断られた。「そのお話を世の中の方が知ったら、多くの方が励まされるからぜひ」と食い下がったが、やはり微笑んでこう言われた。
「ごめんなさい。私、他人を励ますために生きているわけじゃありませんし」
その後も連絡を取り続け、気持ちが変わるのをじっと待ち続けた。
翌年3月、その方が、悲しみを乗り越えようと韓国に留学に行ったので、追いかけた。まったく取材に応じてもらえるという確証がないままの海外出張。「空振りでもいいから行ってこい」と言われて送り出されたものの、内心ものすごく不安だった。でも、海外まで来たことで、相手も「そこまでしてくれるのなら」と意を決して下さったようだ。
翌日、時間を取ってくれた。ただ、亡くなった娘の生前の記憶を一つずつたどって確認していくという、残酷な作業を強いてしまった。ホテルのラウンジで2時間ほど話をしたが、最後は2人とも号泣した。取り乱すようにその場を去っていった女性を見送りながら、私は自責の念しかわかず、宿に帰って一人、ルームサービスで夕食を頼んだ。ろくに喉を通らなかった。
この方とはその後も折に触れて電話で話をしている。ときには絶望的な心境を訴えてくることもあったが、前向きに生きようという気持ちを失わない方で、6年後には再び韓国で、韓国語教師として学び直す姿を取材した。農業に例えるなら、種をまいて収穫まで6年かかったことになる。極限まで追い詰められている遺族をさらに加害することもあるのが遺族取材だが、そうした中で信頼関係が強まり、続いていくという側面が確かにあることも事実だ。
(つづく)