遺族の意に反して被害者の死を報じるということ~岸本さんの場合
JR福知山線脱線事故の遺族や負傷者を支援してきた弁護士が、Facebookでこのニュースをシェアして、いろんな記憶がよみがえってきた。
長いこと記憶の中に埋もれていたが、決して忘れることのできない名前だった。この件が公になった経緯は、自分も深く関わっていたのだから。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kobe/20211004/2020015517.html
匿名の情報提供
あれは私が阪神支局に異動してすぐの頃だったから、2008年の秋だった。
ある匿名の情報提供が、支局に寄せられていた。
「福知山線脱線事故の負傷者が自殺した」という内容だった。
警察担当の記者が所轄署に取材して、個人名こそ出なかったものの、居住地域や年齢など、おおよその人物像が浮かんできた。それをもとに、取材班で断片的な情報をかき集めて作成していた被害者名簿と照合して、「この人ではないか」というのがほぼ特定できた。
当時大学生だったこの男性は、4両目に乗っていて首にケガを負った。ケガは回復したが、その後深刻なPTSDに悩まされるようになる。男性は当時、ブログを綴っていた。精神的な傷の深さや悩み、苦しみがにじみ出る文章だった。
マンションの地下駐車場にめり込んだ1両目、マンションに巻き付くようにつぶれた2両目の乗客に比べ、4両目は事故自体の衝撃は比較的小さく、肉体的にも軽傷か無傷の人が多かった。しかし精神的な衝撃は本人の内面の問題で、必ずしも外傷の大きさと比例しない。その落差ゆえ、事故で受けた内面的なショックを理解してもらえない苦しさがあったのではないか。
ただ、男性の母は取材に応じなかった。「書かないでほしい」という意向も伝わってきた。先行して取材していた他社もあったようだが、そうした経緯もあってか、記事が出ることはなかった。
しかし、JR福知山線脱線事故の負傷者が、PTSDを苦にした自殺したケースが判明したのは、初めてだった。取材などで知り合った多くの遺族や負傷者が、事故のトラウマやサバイバーズギルト(生き残ったことへの罪悪感)に苦しんでいることも見聞きしていた。今ほどメンタルヘルスの重要さが社会で認知されていなかった時代、先に書いたような「ケガが軽いのにどうしてそんなに苦しんでいるの」という周囲の声や視線に傷つく人も多かった。被害者のこうした苦しみを広く知ってもらうため、新聞で報じることには社会的な意義があると考えた。
JR西日本のご被害者対応本部は、当然、この件を把握していた。そして黙っていた。取材に対して事実関係を認め、型どおりのコメントを出したので、原稿を書いた。
そして支局のデスクと議論した。やや及び腰のデスクに「これは伝えなきゃいけない話だ」と強い口調で掲載を求めた。基本的に優柔不断で相手の強い説得にすごすご引き下がることも多い私が、ここまで強く出たのは、きっと誰かに背中を押されていたんだと思う。
幸いにも、本社のデスクは意義を理解してくれて、記事は夕刊社会面の肩に掲載された。他社が慌てて翌日の朝刊に追いかける特ダネになった。大きな反響があった。
遺族から猛抗議
ただ、話はこれで終わりではない。記事を見た男性の母から、支局に猛烈な抗議が来た。最初は「書かないでほしかったのに、なぜ書いたのか」という趣旨だったと思う。男性の母は支局にやってきて、支局長と面談を持った。
取材トラブル対応の常として、取材し記事を書いた記者は、抗議の主と接触を禁じられ、面談にも同席できなかった。そのため、どういったやりとりがあったか私は詳細を知らない。ただ、最終的には記事の中で伝えたJR西日本のコメントで、PTSDを「心の病」と表現していたことへの抗議になっていた。うちの子は病ではない、傷を負っていたのだ、この二つは明確に違うのだと。
こちらとしては、JR西日本がコメントした内容を、深く考えずほぼ文言通りに書き写したものだったとはいえ、学びを得た経験だった。
徐々に男性の母の対応も変化していった。支局長とは継続的に面談を重ねていて、私はその詳細なやりとりは知らされなかったのだが、半年後に支局長が異動することになったときは「お名残惜しい」と残念がられたという。
やがて「4両目で被害者と名乗るなんてどうかしている」と無神経な発言を重ねる支局長がやってきて、この得がたいやりとりも自然消滅するのだが、まあそれはともかく、手前味噌ながら、男性の母は、心の底で報じられることを望んでいたのではないか、とも思うようになった。
本人に訪れた変化
のちに男性の母は、息子の死を風化させまいと、様々な取り組みを公にしていくことになる。メディアの取材にも積極的に応じるようになった。
早苗さんは、遼太さんをしのび自宅の庭に桜を植え、「遼ちゃん桜」と名付けて大切に育ててきましたが、高齢のため世話が難しくなり、13回忌にあたる去年10月2日に、市の許可を得て自宅近くの公園に移植しました。
みんなに命の尊さを知ってもらいたいと移植されたサクラの木は高さが5メートルほどあり、4日も日の光を浴びて、緑の葉っぱを照らしていました。
早苗さんは、「遼ちゃん桜」をテーマに「桜の涙」という詩を書き、友人で遼太さんのピアノの先生だった熊谷啓子さんが曲をつけて、ことしの春には演奏会を開き、悲惨な事故を2度と繰り返さないよう訴えました。https://www3.nhk.or.jp/lnews/kobe/20211004/2020015517.html
これらはすべて、私が関西を去った後の話だが、取材にすらかたくなに応じなかった自死当初のことを考えると、その態度は大きく変化している。
あのときの自分には、書かないという選択肢もあった。書かなければいずれ別の誰かが書いていたかもしれないし、本人のタイミングでいずれ自ら明らかにしたのかもしれないが、まったく公にならなかったかもしれない。それなら、息子の死を風化させまいと世に訴える作業はなく、ひたすらJR西日本ご被害者対応本部との密室のやりとりを続けていただろう。多くの被害者が、こうした選択をした。その孤独も伝え聞いていたからこそ、この事実を知ってしまった以上、闇に葬ってはならないと思ったのも事実だ。
(JR西日本の被害者対応はいずれ書きたいが、とにかく公表せず、同様の境遇の人々と接触を分断し、水面下で巨大企業と1家族とのやりとりに持ち込もうとする。被害者の連帯や社会の共感が得られないという点で、かなり孤独で不利なやりとりになったのではないか)
取材、公表にあたって遺族の承諾を得るのは当然の行為だが、メディアはときにそうした手続きを意図的に乱暴に省略する。他社のそうした行為も時に目にしたが、自分で踏ん切りがつかないので、他者からのそうしたアプローチをむしろ待っていたような人もいた。柿が落ちるのをずっと待っているのではなく、木の枝で熟した柿を摘みに行く行動も必要になるときがあるのかもしれない。
自分にとっては、この記事は書くべき内容だったし、今でも書いて良かったと思っている。あくまで結果論とはいえ。
いずれにせよ、男性のブログは、更新されないまま時間が経っていった。男性に会ったことのない私がその死を実感するのは、いつまでたっても更新されないブログの文面だけだった。肌寒さが増していくなか、一人の若い人が突然この世を去るという冷酷な現実がそこにあった。
男性の母が亡くなったのは、男性の命日の前日だったという。やっと愛する息子のそばに行けただろうか。心から冥福を祈らずにはいられない。