コミュニケーションツールとしての学問※どうでもいい
人にコトを(教える/学ぶ)ことは、①興味を媒介としたコミュニケーションとしての様相、そして、②金銭を媒介とした取引としての様相を呈しうるが、学問というものがこの社会に大きく居座っていることからして、②の様相の方がその本質に近いとは考えづらそうだ。つまり、学問的なものの本質は興味を媒介としたコミュニケーションであり、金銭を媒介とした取引としての学問的な何かの存在はそれに付随する現象と見るべきだと推論できる。
で、俺が今から書きたいのは①の方の学問についてなんだよね。よろしくお願いします。
人間の性質(本能)の関数として「"学問"の存在」という現象を捉えると、果たしてこの関数はどのような見た目であろうか。
第一に、僕らは識る気持ちよさに抗えない。第二に、僕らは共感/心を通わせることに幸せを見出すようだ。これに異論があれば是非とも聞きたいが、今はとりあえず置いておいて、、、
やはり、心の底から人を学問に駆りたてるものって、この共感による幸せ"だけ"なのではないか、とおもうんだよね。考察し、納得することから得られる生物学的快感と共感のコンビネーションによって、学問という大きなものの存在が今日まで社会の中で持続されてきたわけだ。
仮に学問が全ての人にとってオナニーだったとすれば、コペルニクスの名前が今でも聞こえてくることなんて有り得ない。学問はどちらかと言えばセックスと言える。
俺からは以上だ。
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