【日記】植樹
・気持ちの時間
あまり良くない面として、物事が上手くいくとその終わりを強く意識してしまう。
誰かと仲良くなると縁が切れる時を考え、何か好調だとそこから手が離れる日のことを考える。
もちろんそれが良い方向に働きリスクを事前に回避すると言えば聞こえはいいが、人生を阻害する場合については火を見るよりなんとやら。物事を楽しむことができない。
考えると、全てには当然終わりがあるのでそれを意識してしまうのは本当に意味がない。無くなってしまうから盛り付けたご飯を食べない、そんな人がいるだろうか?
もしあなたが最期を頭の中心に置いているならば、即刻やめるべきだと、僕はゴールデンレコードにすら書けるだろう。
ただ、話は脱線するけれど、こういう時に僕は「思考と行動が一致しない方が人間らしくない?」と思うことが多い。
僕の考えとして、理想と現実が乖離して苦しむことに間違いはないというか、理想に届く方がないことで、雲を掴もうと伸ばした手に、触れた木の葉を握るべきだと思っている。
が、しかし、矛盾を許容する気持ちを抱えている人を手放しに正しいと言えるのか。一目には言い訳にも諦めにも思える。苦しんでこそ、苛まれてこそ、と言うのは、、、、酷だろうか。
わからない。
話を戻すと、急に元も子もないことを言うが、ある瞬間だけに目を向けられないのは仕方ないことで、上手く活かしていくしかないんじゃないかとも思う。
推測ではあるけれど、世の中には全く逆の悩みを持っている人もいるはずで、100%デメリットな部分じゃない以上、無いものねだりでしかないというわけだ。
ところで、隣の芝が青く見えてしまったということに帰着する話は総じてしない方が良いように思える時がある。というのも、大体はそこに着地できてしまうからだ。無理やり結びつけることすらできるだろう。
じゃあ、それならば、ここまでの文章は全て無駄だったのか?いや違う。そんなことはない。
こういう思考の過程を経験すること、それ自体に意味があると僕は思う。それが根、或いは果実を変えることがなかったとしても、養分にはなるだろう、そういう風に考えている。
こうやって自分の考えたことに価値を与えようとしていて見苦しい。そう思われるかもしれないが、僕はそれすらも飲み込む。全てを飲み込んで、自分にしたい。
究極には寛大になりたいのだと思う。そんな気がする。全てを受け入れたい、物事の終わりも、自分の考えも、他人の目線も全てを吸い上げたい。
そのためには何も恐れない、知らない顔をして動かないといけないなと思っている。しかし、今の僕にはそれができない。怖い、本当に怖い。
なるほど、確かに人は矛盾しているので素直に動けないのか。それなら仕方ないね。
本当に、仕方ないで終わらせて良いのだろうか?
さあね?
酷暑の中、新緑を見てそう思いました。