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詩人であること。パターソンについて。


『パターソン』(2016)を観ました。

ニュージャージーの街、パターソンに住むパターソンの美しい7日間の物語。。でした。


スターウォーズの新しいシリーズを観ていないので、カイロ・レンとしてのアダム・ドライバーを知らないことも功を奏したかも知れません。
結構好きなタイプの作品でした。
そして、まんまとアダム・ドライバーという俳優の魅力に胸を掴まれてしまいました。

どうでもいいことですが、
"ドライバーがバスのドライバー"という駄洒落が何回か頭を過ぎりました。


さて、
『パターソン』を観て考えたことは、2つ。
人の職業についてと、詩についてです。
それについて、長々と語ってみます。
お暇なときに読んでいただければ幸いです。


職業とは。

職業というのは、例えば
ピカソが絶賛したシュヴァルの理想宮を33年かけて作ったシュヴァルの職業は郵便配達夫で、
半世紀の間、誰にも見せることなく1万5千ページに及ぶ作品を描いていたヘンリー・ダーガーの職業は掃除夫なのか?
というようなことです。


ちょっと話が逸れますが、
NHKの「駅ピアノ」という、駅に置いてあるピアノを弾く人を映すドキュメンタリー番組が結構好きです。

ピアノを習っている子どもだったり、スーパーの店員だったり、ホームレスだったり、いろんな人が駅のピアノを弾いているだけの番組ですが、眠れない深夜とかになんとなく見入ってしまいます。
(ちなみに、街ピアノとか空港ピアノもあるそうです。)

この番組を見ていて思うのは、
接するシーンが限られていて、仕事をしているところしか知らない人も、家に帰ればピアノを弾いたりする人なのかも知れないという可能性を秘めているということです。
その可能性に、ふわっと世界が広がるような感覚を覚えます。

いつもお世話になっているコンビニの店員さんや、配達員の方、スーパーのレジの方も実は、音楽家だったり、小説家だったり、画家だったり、パティシエだったり、YouTuberかもしれない。(YouTuberだけ毛色が違う気がするけど。)
そんな世界は、とてもすてきな気がします。


映画『パターソン』のパターソンは、バス運転手でありながら、詩人でもあります。
自分で自覚していないのか謙虚なのか、人に聞かれたときに自分はただのバスの運転手だと答えるところもまたすごくいいのですが。

人の職業・仕事って、なんなんだろうと考えさせられます。
お金を稼ぐのが仕事なのか、生きるためにすることが仕事なのか。


詩について。

日本では"詩"というと、poet(詩人)じゃなくて"ポエマー"の方がメジャーかも知れません。
ちびまる子ちゃんのたまちゃんみたいに、自分の世界に浸りがちなロマンチストのイメージを指す言葉ですが、自嘲気味に自分はポエマーだと言う人がいたり、そういう人たちを小馬鹿にする感じが正直あんまり好きではないです。

個人的な感覚だけの話ですが、
海外の映画だと、お気に入りの詩を暗記している人がいたり、詩を読んだり書いたりするシーンをよく観るので(ウェス・アンダーソンの作品とかで)、小説のように詩が生活の一部になっている人が多いのかなと想像しています。

対して、最近の詩人で有名な日本人って最果タヒくらいしか思いつかないし、身近に詩を読む人があまり居ないので、日本だとあまり詩が日常に馴染んでいない気がします。
ものすごく個人的な感覚なので、実際がどうかは知りませんが。詩が好きな方、すみません。


以下、全く根拠のない詩についての考察。

ここからかなり横道に逸れます。

日本語の特性が、詩を特殊な文芸にしている気がしています。

『パターソン』に出てくる詩は英語なので、韻についての話なども出てきます。
でも、日本語の特性上どうしても韻を踏むのは難しいため、詩で韻を踏むことはほぼないですよね。

例えば、韻を踏むラップでも日本語の場合は、ラッパーのKダブシャインが開発した、倒置法を用いた倒置押韻法というのが使われたりします。(ラップ詳しくないので、あんまり知りませんけど。。)
ラップは、音楽に乗って聴いている分には違和感がなくても、実際に言葉だけでみると不自然な日本語だったりして、日本語ラップに拒絶反応が出てしまうのはそれが原因なのかなと感じています。(あくまで個人の感想です)

韻を踏まないままテンポを作るために独特な言い切り方があったりする日本語の詩は、ラップと同様に不自然な感じが多いように思うのです。
そういえば小学生の時、国語の詩の朗読の時間が大嫌いでした。
"竹、竹、竹が生え"(萩原朔太郎)とか、"あいたくて、あいたくて、あいたくて、あいたくて、今日も綿毛を飛ばします"(工藤直子)も。
(朗読が嫌いなだけで、詩自体はそんなに嫌いな訳ではなかったんですけど)
それは多分、普段は感情的に話すことなんて滅多にないのに、詩は平坦な読み方が難しくて、感情を込めて読まないといけないからです。
実際、俳優みたいに感情を込めて詩を朗読した子は先生に褒められてました。
(クラスメイトは失笑でしたが、、)

逆に、英語は普段の会話自体が感情的な抑揚が多いイメージで、詩は抑揚をつけずに静かに読まれている感じ。なので詩を読んでいると、すごく知的な印象に見えます。

日本語と英語の特性の違いで、詩というものがまったく違う芸術分野になっている気がします。

『パターソン』のなかの台詞に"詩を翻訳するのは、レインコートを着てシャワーを浴びるようなものだ"みたいなのがあったけど、英語の詩は日本語に翻訳できない、(日本語の詩もまた。。)という発見は結構印象的でした。

その詩の持つ美しさは、その言語だからこそ表現できるものだということに気付かされたのです。

そう考えると、堀口大學はヴェルレーヌの詩やランヴォーの詩を"翻訳"していたのじゃなくて、意味を理解した上で詩を"創作"していたのか、というようなことを考えました。
フランス語は、英語よりさらに理解していないので知りませんけど。。


まとめ。

主人公のパターソンが詩を書くように、ホームレスが駅のピアノを弾くように、自分の世界を表現する術をもっていることが生活の豊かさにダイレクトに繋がるのかも知れない、というのが総合的な感想です。

シュヴァルもヘンリー・ダーガーも、人生がとても豊かだったはずだと思うのです。

彼らの職業とは全く離れてた作品は、別次元の自分の世界を表現し続け、その美しさとかひたむきさに皆胸を打たれるのだと思います。

パターソンの毎日も同様に、同じような日々のようで実はとても豊かな生活です。
そして、静かで美しくて、7日間の話だけで映画として成立してしまう。

そういえば、映画の中に何度か名前が出てくるパターソンの詩人、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは町医者でもあったみたいですね。
美しいパターソンの街で生きていることが、人を詩人にするのかも知れません。


美しいノートに、自分の言葉で自分の見ている世界を綴ってみたくなるような映画でした。
これが、ノートならぬnoteでもありますが。。

知識もない人間がつらつらと書き上げた、読みづらく長いnoteを読んで下さった方、本当にありがとうございました。