共感力って

世に広く浸透してしまったmbti関連の話題の中で思うことは沢山あるんだけどもそのうちの一つ、共感力 について。まずmbtiに関して私は専門家でもなければ同年代の中でもどちらかというと疎い方なもんで、ここで語るのは一般的に言われていること、周囲の人間らの会話で耳にすること、また少々の実体験をもとにした内容に過ぎないことを理解してもらいたい。そして特定のmbtiの方々を避難したり陥れたりする意図はなく、飽くまで私のモヤモヤをフワフワと書き綴ったものであると、どうか念頭に置いていただきたい。ので、よろしく。

"共感力の高い"NF型
人間関係に重きを起き、他人や相手の感情を深く理解し寄り添うことが出来る…なんて説明がありますけど、NF型の皆さん的にはいかがですか?
共感力について言う前に、NF型っぽい人に私の話を聞いてもらう時私が感じることをいくつか書いてみましょうか。
・そんな重く受け止めるな(私より辛そうな顔すな)
・最後まで聞け(相槌・合いの手が早い)
・いやそうじゃない(すぐ自分と重ねるな自分の話にすり替えるな)
・そんなに感情に浸ってどうするのか
・悲劇のヒロインになりたいのか
分かりやすく言うとこんな感じで、多少口調が荒くなったのはその、すみません。
お気づきでしょうか。私がNF型との会話で彼らの共感力をあまり感じていないということに。実はそれも世の中で言われている共感力なるもの故、なのかもしれません。

"共感したい性質"
上に書いた通り、私は周囲のNFさん方にあまり共感力を感じていません。その理由に、彼らの思う(もしくはmbtiで言われる)共感力と、私のような人間の思う共感力の違いがあるのかもしれないなと思いまして。まあ、小見出しの通りなんですけども。よく言われている共感力というのは、「相手の身に起きた悲しい出来事を自分事のように捉え一緒に悲しむことができるような能力」じゃないですか。まずここに違和感ありませんか。人間全く同じ条件、状況で全く同じ経験をしたとしてもそれまでの人生やそれにより作られた性格、思考の癖etc.のせいで一出来事を全く同じように捉え全く同じ気持ちになるなんてことは不可能な訳で。それを自分のこととして想像して(これはもちろん悪いことではないと思うよ)時に自分の経験と重ねて(まあここまではいいか)、彼らは安易に「わかるよ。」と口にしてしまう。これで救われる人間もいるかもしれないが私は、このひねくれた私はそれを烏滸がましいと感じ、私だけのもののはずの感情を人様が「わかってたまるか。」と思わずにはいられないのです。(なのでそのタイプの人には自分の話はしない。自分と同タイプの人と話す場合もまず出来事ベースで話をしない。基本自分の考えを盛りに盛り込んで話すので口数は凄まじい。「わかる」より「なるほど」が返ってきて理解しようとしてくれてることが嬉しい。)
脱線しそうなので戻りますが、要は彼らは共感する能力が高いのではなく共感したい性質が強い(だけな)のではないか、ということでして、NF型の「共感している」状態は文字通り共に感じている彼ら主体のものであって、相手の心境を自分の中できちんと再現出来ているかどうかは別(繰り返しになるが出来るはずがないと私は思う)じゃないか、というのが私の"共感力が高い"についてのモヤモヤなのですよ。更に言うと、同じ感情に浸って欲しい訳ではなくあなたの考え、あなたならどう思ってどうするかを聞きたい、といった私の気持ちには共感してくれないのかい?とさえ思っちゃいますがなんかここまで言うと嫌な奴だな私。

うちらなりの"共感"
mbtiで言うと私は「共感力が乏しく他者の感情を蔑ろにする」なんてよく言われるタイプなんです。悲しいね。ここまで散々NF型の共感力について突っかかったのは、これに苦言を呈したかったからなんですよ。カギカッコ内の文言を見るとなんて人間味のない最低なヤツだと思いますでしょう?私だって思いますよそうじゃないから。人の感情を置いてけぼりにして目的のために事を進めると綻びが出てくるので得策ではない、という考えから相手の感情を意識的に想像するというそんな側面もありますが、まず我々に共感力がない(この物言いこそ相手の感情を蔑ろにしているのでは)というのが私の感覚では首を縦に振り切れないところです。上の項で申し上げたようにNF型の共感は言わば自分本位で、わかった気になって正確には間違った解釈で相手を決めつけて、そこで想像を完結させてしまっている状態を作り上げるため、共感の反対を行っている訳ですよね(他者を下げるようでよろしくないですね、もう少し柔らかいニュアンスにご変換ください。)。しかし人との関わりで真に必要なのは「あなたはそう感じるんだね」、「私とは違う考え方の人もいるよね。」という自分とは違うものへの想像力と配慮、その意味での共感力なのではないかと思うのです。それで言うと寧ろ感情面で自分と相手をひとつに括らない我々の方が強いのでは?とも。いやそれを言ってしまうとここまでの共感力についての文章まるごと「そう思わない人もいるよね」という考えが浮かばない一方的な人間のもののように思えるぞとツッコミをいただきそうだけれど。

もしも私のような人がいればわかってもらえるかもしれないなぁわかってくれないかなぁ、なことを最後に一つ。私は人の感情的な部分に触れた時、例えば目の前で誰かが泣き出した時、本当に困ってしまうんです。どうすればいい?何が最善?と慌てふためいてしまうんです。最善というのが自分にとってなのか相手にとってなのかは相手との距離感によるので親しい仲(に突然泣き出すような子があまりいないのだが)であれば相手にとってを考えられる割合は増えるでしょう。しかしここで何故こうも落ち着いていられなくなるかというと、相手の強い感情に対しブロックというかバリアというかそういうものが作動してしまい相手の感情そのものに寄り添って一緒に泣いてあげるような最も自然な行動の選択肢が奪われるからなんですよ。それは私に「人は簡単に相手の気持ちを理解できるものではない、自分事に置き換えてそれをわかった気になるのは相手の感情へのリスペクトに欠ける」という信念のようなものがあるからで、感情はその人だけのものであるということを知っていてそれを大切に思っているからこそ不用意に表面的な共感をすることを自分に許していないということかなと。わからないからこそ大切なのですよ。ちょっといいように書き過ぎたけれど、でもわかってほしい。感情を軽視してるわけじゃないんですよ、ほんとに。


いいなと思ったら応援しよう!