#61 ペテロの手紙第一

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レジュメ

※「※」や「⇒」で書いてる記述は、このNoteを書いてる者のメモです。他はレジュメのコピペです。

1.はじめに

(1)ペテロの手紙第一の位置づけ
(ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの手紙第一と第二、ユダの手紙)
②異教社会にあって迫害に苦しむ信者たちを励ますための手紙
*ユダヤ人信者と異邦人信者
③ネロによるクリスチャンの迫害は、64年に始まった。
*7月にローマの町に放火し、10月に教会の迫害を開始した。
④この手紙は、64年前後に書かれたと思われる。

(2)著者は、ペテロである。
①自分のことを、「イエス・キリストの使徒ペテロ」(1:1)と紹介している。
②元はシモンという名であったが、イエスによってケファと呼ばれた。
③ヨハ1:42
「・・・イエスはシモンを見つめて言われた。『あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます』」
*ケファはアラム語、ペテロはギリシア語で、ともに「岩」という意味。
*イエスは、彼が岩のような不動の人物になることを見抜いていた。
④使4:13
「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた」
*無学な普通の人とは、ラビ教育を受けていないという意味である。
*約30年間の奉仕で、ギリシア語を身に付けたと考えられる。
⑤「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハ21:17)という命令を実行している。
※蘇った後のイエスの言葉 ↑

(3)受け取り手は、小アジアの各地に離散した信者たちである。
①「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、」(1:1)
*今日のトルコ北部
②ユダヤ人信者への言及
*「寄留している選ばれた人たち」(1:1)
*「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」(新共同訳)
*約束の地以外は、「ディアスポラの地」である。
③異邦人信者への言及
*「以前、無知であったときの欲望に従わず」(1:14)
*「以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受け
たことがなかったのに、今はあわれみを受けています」(2:10)
④彼らは、イエス・キリストに対する信仰のゆえに迫害に遭っていた。

(4)この手紙のテーマは、迫害の中における「恵み」である。
①「忠実な兄弟として私が信頼しているシルワノによって、私は簡潔に書き送り、勧めをし、これが神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みの中にしっかりと立っていなさい」(5:12)

2.アウトライン

(1)救いと神の恵み(1:3~2:10)
(2)従順と神の恵み(2:11~3:12)
(3)苦難と神の恵み(3:13~5:11)

ペテロの手紙第一からから教訓を学ぶ。

Ⅰ.救いと神の恵み(1:3~2:10)

1.1:3
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
(1)ここでペテロは、救いの将来的側面について語っている。
①私たちが救われたのは、父なる神の「大きなあわれみ」のゆえである。
②救いの方法は、「新しく生まれる」ということ、つまり「新生」である。
③救いの土台になっているものは、イエス・キリストの復活である。
④私たちは、天に蓄えられている資産を受け継ぐようになった。
⑤この資産は、天で安全に保管されている。

2.1:6~7
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
(1)ここでペテロは、救いの現在的側面について語っている。
①クリスチャンにも困難は襲ってくるが、その中にあって喜ぶことができる。
②火を通して金を精錬するように、神は患難を通して信仰を精錬する。
③信仰の精錬は、再臨の時には、称賛と栄光と栄誉に至るものである。

(2)この手紙の受取人たちは、第2世代のメシアニック・ジューたちである。
①彼らは、イエス・キリストを見たことはない。
②しかし、この方がメシアであると信じ、この方を愛している。
③信者が喜びを感じるのは、信仰の結果である魂の救いを得ているから。

3.1:10
この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。
(1)ここでペテロは、救いの過去的側面について語っている。
①新約の信者は、旧約の預言者たちが知り得なかったことを知らされた。
②それは、使徒たちによって伝えられた「福音」である。
③「苦難」と「栄光」というテーマが見事に調和した。
④「苦難」とは、十字架の苦しみを頂点としたメシアの受難のことである。
⑤「栄光」とは、メシアの復活、召天、神の右の御座への着座、再臨、そして千年王国の統治まで含む概念である。

Ⅱ.従順と神の恵み(2:11~3:12)

1.2:11~12
愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。
(1)信者は、天国の国籍を持ちながら、地上では「旅人であり寄留者」である。
①「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざける」必要がある。
②「肉の欲」(ガラ5:19〜21)
「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、など」

2.2:13~14
※ネロによる迫害がひどくなる前に書かれていると思われる。
人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。
(1)公の権威に、主のゆえに従う。
①人の立てたすべての制度は、神の許しによって立てられている。
②公の権威は、悪を行う者を罰し、善を行う者を誉めるために立てられている。
③唯一の例外は、権威が神の御心に反することを強要した場合に起こる。
④「人に従うより、神に従うべきです」(使5:29)

(2)自由人として行動する。
①信者が持つ自由は、「神の奴隷」として生きるための自由である。
②「神以外の何者の奴隷にもならない」というのが、その自由の本質である。
③自由を用いて、すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊ぶ。

3.2:18
しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。
(1)召使である者は、敬意を込めて主人に従うべきである。
①主人が善良であっても、横暴であっても、同じように仕えなければならない。
②横暴な主人であっても、正当な命令なら従えということである。
③罪のゆえに打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、なんの誉れにもならない。
④善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、神に喜ばれる。

(2)信者が見習うべき手本は、キリストの受難である。
①ペテロは、イザヤ書53章を背景にしながらこの箇所を書いている。
②キリストは、信者のために「模範」を残された。
4.3:1
1Pe 3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。
(1)女性の男性に対する服従ではなく、妻の夫に対する服従を教えている。
①たとい不信者の夫であっても、従順に振る舞うべきである。
②妻の「神を恐れかしこむ清い生き方を見た」結果、救われる可能性がある。
③夫は妻の言葉によってではなく、行動によって救われる。

5.3:7
同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。
(1)夫には神に対して従順であることが求められる。
①それを前提として、夫は妻に対する行動を決めねばならない。
②夫が妻を愛するのは、神に対する従順の表れである。
③夫は妻が、「自分よりも弱い器」だということをわきまえる必要がある。
④夫婦はともに努力し、「いのちの恵みをともに受け継ぐ」のである。
⑤夫婦が協力し合って産むものが2つある。
*一つは子どもであり、もう一つは祈りの答えである。

Ⅲ.苦難と神の恵み(3:13~5:11)

1.3:18~19
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。
(1)信者の手本は、キリストである。
①キリストは正しい方であったが、悪人の身代わりとなって一度死なれた。
②肉においては死に渡され、霊においては生かされた。
③十字架上でキリストの霊は死んだ(父なる神との断絶)。
⇒「我が神、我が神、どうしてお見捨てになるのですか」で断絶。マタイの福音書27:46、マルコの福音書15:34
④肉体的な死の前に、キリストの霊は復活した(「父よ(我が霊を御手にゆだねます)」と呼びかけた)。ルカによる福音書 23:46
⑤キリストの霊は、肉体的に死ぬ前に復活した。

(2)復活した霊の状態で、キリストは死者が行く場所に行かれた。
①それが「ハデス(黄泉)」、旧約では「シェオール」と呼ばれている場所。
②昇天する前なので、ハデスには祝福の場所と苦しみの場所が存在していた。
③ハデスの苦しみの場所に行って、「捕らわれの霊たち」に「宣言」された。
※勝利を宣言しただけ。福音を伝えに行ったのではないので、セカンドチャンスではない。
※ハデスには祝福の場所と苦しみの場所があり、祝福の場所が天に上げられたので、イエスは今、天に居るし、信者が死んだ場合は、ハデスの祝福の場所に行くため、そこは天、ということになるらしい。
④この言葉は、「宣教する」とか「福音を伝える」とかいう意味ではない。
⑤「捕らわれている霊たち」とは、「堕落した天使(悪霊のこと)」である。
⑥創世記6章に出てくる人間と結婚した堕天使たちのことである。
⑦彼らは、ノアの時代に神に反抗した堕天使たちである。
⑧ノアが作った箱舟は、新約時代の信者が受ける洗礼の型となっている。

2.4:12~13
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。
(1)試練を何か思いがけないもののように考えるべきではない。
①試練が襲って来た時には、むしろ喜ぶべきである。
②試練に耐えた者は、再臨の時にともに喜びおどる者となるからである。
③試練の中でこそ、聖霊の力を経験するようになる。
④信者は、自分の罪のゆえに苦しむようなことがあってはならない。
⑤キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはない。

3.4:7~8
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

感想

苦難と栄光の調和って話。旧約時代には、メシアについての苦難と栄光がどのように調和するのかが分からなかったのが、新約の福音によって伝えられたらしい。

この話、自分の中では、将棋の藤井聡太棋士を連想します。藤井さん、もしくはAI棋士は、盤面上で、これまでには考えられなかった、一手を繰り出すわけです。要するに、現在の状態と勝利の間をつなぐ、最適解ってことです。それが超高性能な頭脳によって、スパッと導き出されるということです。

羽生善治棋士は、それについては、「これまでの将棋は氷山の一角で、実は未知の将棋の世界が海面の下に広がってるんじゃないか。」ってことを言ってました。氷山って海面の上には1割ぐらいしか出てなくて、9割は水の下ってそういう話です。

つまり、藤井さんやAIは海面の下の氷から、みんなが驚くようなものを掘り出して来る、ということです。イエスもそのようにして、旧約聖書の謎を解く最適解を掘り出してきた、ということです。


イエスの肉体が死ぬ前に霊が父から断絶した場面と復活した場面があると言う。「我が神、我が神、どうしてお見捨てになるのですか(マタイ27:46、マルコ15:34)」で断絶し、「父よ我が霊を御手にゆだねます(ルカ23:46)」で復活したそうですね。

マタイのほう見てなかったのですけど「我が神、我が神、どうしてお見捨てになるのですか」はちょっと気がかりな言葉ですね。自分は助からない!と思ったのでしょうけど、本当にメシアだったら、あまり言わなそうな言葉ではあります。そのすぐ後に訂正したのでほっとするわけですけど、

マルコの福音書の内容を見て、これは訂正入れないとまずいと思って、ルカが後から入れたという可能性もあるわけで、ルカとしては、こう言っててほしかったとか、こう言ってたはず、というのが入っているかもしれない。もし、仮にルカによる推測に過ぎないとなると、

イエスは自分が最後には、救われないと思った、ということになるわけで、これは割と絶望的な話になりますね。ルカの福音書に書いていることが、真実であってほしいものですね。

一応、有料版のChatGPT4にも聞いてみたら、詩篇の引用だから、大丈夫だそうです。

イエスは死んだ後、ハデス(黄泉)に行ったけど、ハデスには祝福の場所と苦しみの場所があり、祝福の場所が天に上げられたので、イエスは今、天に居るし、信者が死んだ場合は、ハデスの祝福の場所に行くため、そこは天、ということになるらしい。

まとめとしては、迫害の中における「恵み」の話でした。ちょっとまとめにくい話な気がしなくもないけど、上に挙げた場所以外は大体分かります。


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