感情と差別の境界
この世界には色々な人間が住んでいて、人それぞれに思想も外見も違う。殆どの人たちは日常生活において、その行動範囲は決まっていると思う。だから日常的に顔を合わせる人たちも必然的に限りがでてくる。そうであるにも関わらず、日々の生活の中で「色々な人がいるなぁ〜」と思わせられる体験はあって、こういう限定的な世界でそうなのだから、自分達の知らない世界、行き届かない世界にはもっと色々な人がいるのだろうと推察できる。
その中で全ての人類が完全に調和する事はたぶん無理だと思う。その要因は、文化であったり、習慣であったり、思想であったり、人種であったり、性であったり、或いはもっと他の何かかも知れないし、全く何の要因も無くても、何故か不調和になる場合もあるのかもしれない。
ただそれはある程度は仕方ない事というか、お互いの思想や思考、感情を完全に共有する事はできないのだから、その中でラグは起こるし、そうである以上、お互いにスッキリ気持ちの良い状態で受け入れ合う事は無理なのだろうと思う。
その中で人は互いにわかり合う努力をし、調和しようとする。だからこそその姿は尊いのだと思うし、調和を感じられた時には感動するし、それが人が人として生きていく上においての大きな醍醐味の一つだとも思える。
ただやはり前提には「分かり合えない」としておく必要はあると思う。その「分かり合えない」の中でお互いに上手くやっていける道を模索すべきだと僕は思う。
人間は万能ではない。そうである以上、その万能では無い部分も許容する必要があると思う。他人種をどうしても受け入れられない人たちはいるし、自分と違う性的感覚をどうしても受け入れられない人たちはいるし、思想的に分かり合えない人たちもやはりいるのだ。
それがお互いの調和の為の障害になると分かっていても、そうせずにはいられない。それが人に備わっている感情という要素なのだと思う。
感情のコントロールはそう簡単な事では無い。だからこそ人は千夜に八千代にその術を模索し続けている。
もちろん、分かり合えないからといって、理解できないからといって、受け入れられないからといって、それが、相手の人権や存在を侵していい理由にはならないし、それらを侵すような言動は全くしてはならないと思う。ただ、そういう差別的な言動と感情の境界線は明確にして置くべきであると思う。
人は生理的に無理なものやはり無理でそういう感情的感覚を差別とするのは、人としての息苦しさや存在の意義を見出せない要因になりかね無い。生理的にどうしようもない事に嫌悪感や罪悪感を感じるのは思想的に自由とは言えないと思う。
最近は、そういう個人の感情というか生理的な思想の部分が即差別として認識される事が多いように思う。もっと注意深く意見に耳を傾けて、それが差別なのか感情なのかを慎重に判断すべきであると思う。
誰かの自由の為に誰かの自由が奪われる事があってはならないし、だがらこそ熟考と慎重な精査が必要だと思う。安易な判断と言動がこの世界を住みにくい世界にしていると僕は思う。
終