島と教育
【Facebookより転写】
昨夜、教育の現場で長く活躍された方々の話しを聞く機会があって、思った事は、島の人たちはやはり何処か考え方が前時代的だという事。
教育には育てる側を主体とするものと、育てられる側を主体とするものがあって、どちらを主体とするかで問題の見え方は全く違うし、現実として起こる一つの問題にはその両側からアプローチすべき事象が同時に起こっていて、それを見極める能力や判断力がとても重要だと思う。
一昔前は、育てる側を主体とする教育が一般的だったけれど、現代社会では、育てられる側が主体の教育が一般化している。どちらが善い、悪いは無いと思うけど、ただ、時代の流れの中でそういうふうに変化しているという現実はある。
しかし、どちらにせよ教育にはその両側を主体とする見方や考え方があって、それに携わる者はやはり、その両側をバランスよく見極められるセンスは必須だと思う。
例えば、島の託児所にしても、確かにママ達を主体に考えれば、とても素晴らしい取り組みだと思えるけれど、子どもたちにそれがベストな教育かと問われると、決してベストとは言い切れないと僕は思う。
例えばマジョリティーに能力的、精神的についていけない人たちの教育にしても、島で上手く馴染めているからと言って、その教育が上手く機能しているとは、たぶん言えない。将来的な長い目で見れば、その場所にずっと留まる事は不可能だし、であるなら、できるだけ自立して生きていけるような教育を受けさせるべきであると思う。そういう境遇の人たちは、劣っているのではなくて、ただ多数派には理解しがたい世界観で生きていたり、能力的バランスが悪かったりするだけであって、特化した能力や、感性を持っているケースが往々にしてあるし、そういう能力を引き出すには、そういう専門的な教育を受ける必要があると思う。島での教育は、細部まで目が行き届くという利点はあるが、能力を引き出すという教育にはたぶん向いてない。やれる事の選択肢が極端に少ないから。
例えばネグレクトにしても、育児を放棄された子どもはもちろん可哀想なのだけれど、じゃあ育児を放棄した親が酷い人間なのかというと恐らくそうとも言い切れない。一般的な躾と言われる教育を真っ当に受ける事ができた人間がネグレクトになる可能性は低い。つまり幼少期にそうなってしまう要因があって、そういう背景を知る事でネグレクトという問題に対する考え方は変わってくると思う。
「育てられないなら産むな」という意見もあるが、そもそも生命は創るものではなく、授かるものであって、自然の摂理の中で授かったものに対してそういう意見を吐くのは、命の尊厳を無視した人間勝手な思考だと思う。
そもそもこの世界には、約77億人の人間がいるのだから、自分の感覚を絶対基準として物事を考えるのはナンセンスだと思う。自分の普通が他の誰かの普通とは限らない。万人が愛という感情を持っているわけではないし、信念や志しを持って生きているわけではない。そしてそれらが無いからと言ってそれを悪とするのも違う。
大切な事はそういう人たちが必ずいるという前提の中で、教育を考える時、その人たちがそれを恥とせず、放棄でき、且つ命の尊厳を守る事ができるシステムを構築する事だと思う。そういうシステム創りが政治の仕事で、求められているものだと思う。
そして何より教育はやはり育てられる側の為にあるべきで、育てる側の都合や、価値観でその質が低下する事があってはならないし、強制や強要もあってはならないと思う。