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読書note No.22 人生は舞台 あなたは名優 第四章 田中信生

アウシュビッツで、何百10,000人ものユダヤ人が殺されました。ビクトル・フランクルと言う精神科医もユダヤ人として、この強制収容所に入れられていました。バタバタと病気家が私でなくなっていく中で、彼と数人が生き残りました。彼はもうダメだと思うに、...。
今日も読書ノート、開いていきますね🤗

2021/01/22 22日目!
この本は、キリスト教の牧師先生の本です。
私はクリスチャンではありませんが、心温まる、癒されるお話満載です。

<1book>
人生は舞台 あなたは名優
第四章 人生の確かな拠り所
田中信生
一粒社  1990年

<3point>
① 神様は、あなたに必要なものは、健康かお金か、あるいは勇気か力かアイデアか、それを無尽蔵に、決して尽きないほど、どんな時でも用意しておられるというのです。それが神から賜る恵みということです。神様は、必要なものを必要な時に備えてくださるのです。ですから、何も、あなたが自分でポケットに無理して収めておく必要は無いのです。何かあなたが思い煩って「あの事はどうなるのだろうか」とか自分のポケットに、自分の計画の中に、狭い人生観と思いの中に自分を取り込んでいると、そのことが、あなたを支配するようになるのです。そうすると、本当に確かな神様の方へ向かって、神様からエネルギーをもらっていくところに人生を費やすのではなくて、費やさなくてもいいところにエネルギーを浪費すると人間は疲れ始めます。そしてどんなに頑張っても、ぐるぐると堂々巡りをしてしまいます。

② 聖書は、無尽蔵に祝福を与え、水の絶えない泉のようになると言うのに、誠に残念なことに、私たちは条件をつけて、私たちの方で小さな物差しで、小さな杯のようなものに神様の祝福を盛って、それでも「まだ足りない、まだ足りない」と言っているのです。小さいのは神様の祝福ではなくて、私たちの方の器なのに、それがわからないのです。これを人間の思い上がり、傲慢というのです。
 神様の祝福が無尽蔵だとわかったら、人間は力から解放され、いつも必要な時に必要な分を無条件で、無尽蔵である世界からいただき始めるのです。そして神様とのベルトがいつも、しっかりとかかっていたら、永遠の今に充実した人生を歩むことができるのです。

③ しかし本音を言うと、人はそういうことがなかなかわかりません。人間の心の中に、自分のわがままや自分の思いや欲望があり、無尽蔵、無条件を自分勝手にゆがめているのです。これは人間の悲しみ、仏教でいうなら人間の業といいましょうか。聖書では、そのことを人間の罪といいます。世界中の宗教が人間のどうすることもできない心の中にある悲しみや罪、カルマから、どうしたら救われるかということを考えるのです。
 人間が治っていく、成長していくというのは、誰かがあなたの痛みを責めたり、叩いたり、説明したりするのではなく、黙ってそっと受け入れる、そういう愛に出会うときにのみ可能なのです。そして私たちの罪や悲しみ、痛みから解放されていくのです。

<1episode>
 アウシュビッツで、何百10,000人ものユダヤ人が殺されました。ビクトル・フランクルと言う精神科医もユダヤ人として、この強制収容所に入れられていました。バタバタと病気家が私でなくなっていく中で、彼と数人が生き残りました。彼はもうダメだと思うに、死にそうになる時、こう考えたそうです。
「愛する妻は今頃、どうしているのだろうか。苦しんでいるのなら、その何倍でもいい、彼女の苦しみを自分が負って生きたい」と、そう思い始めたら、ものすごく勇気が湧いてきて生きるエネルギーが与えられたと言いました。時が来て、彼ら数人は生き残って収容所を出たときに、自分の命の支えになった奥さんを探し始めました。そしてわかったことは、自分が妻を思っていたときには、すでに奥さんは死んでいたと言うのです。このフランクルと言う人は、クリスチャンでもあるのですが、彼はこう書いています。
「もし、あなたのために命まで捨てて死の壁を打ち破られたのまことの神、キリストを人生の土台とし、この方が先におられるということを知り、その方と人生を歩いたら、どんな試練も問題もあなたは乗り越えることができる」と。
 人は、本物の愛で変わるのです。もし人生に、目には見えなくても、私のために命までも捨てて捧げて、私たちを愛してくださる、キリストが私たちと共におられるということを知り、そのお方を人生の主に迎えていくと、本当の人生を建て上げることができるのです。どんな問題があっても、それを乗り越えるエネルギーは、自分を愛してくれる人を思うことから出てくるというのです。
 地位も財産も健康も、それは尽きるものです。でもイエス・キリストは、昨日も、今日も、とこしえまでも変わることがありません。

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 確かに、私たちは、物も愛も時間も、無意識に制限をつけています。無尽蔵や無条件を想像するのが苦手です。中でも、「無条件に愛し愛される」というのは、それは理想であって、という言葉が自ずと出てきてしまうのは、私だけでしょうか?でも、今ここに私が存在するのは、明らかに奇跡で、いろいろな感情を持ちながら、迷いながら、勇気を出しながら、生きているのも事実です。そんなとき、大いなる存在から、「愛されている」と思うことは、嬉しくなり、大変心が安らぎますし、その大いなる存在を「愛している」と認めると、力が湧いてきて、エネルギーが満ちてきます。ただ言葉のままに、無尽蔵や無条件を、受け入れる時間を持つことも必要なことであると、考えました。神様でも仏様でもいい、想像を超えた、絶対者に「愛されている」と思う時間を作ろうと思いました。


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