令和6年元旦能登大地震:緊急避難先に届く和倉温泉の「おもてなし」
開放されたドアから冷たい夜の風が入り込み、底冷えする体育館の床から避難できたことに安堵したが、まだ気を抜くには早かった。
校長室の壁時計を見上げると、6時半を指していた。
明日の朝まで12時間ある。
夜が冷え込むのはこれからだ。
ソファ席にうずくまる両親の顔は青ざめていた。
高齢の両親が一晩過ごすのに快適な環境とは言い難かった。
より快適な環境に整えるため、情報収集をしようと、校長室の外に出た。
すると、廊下の奥に救援物資だろうか、長机にお菓子やパンなどの食料らしきものが並べられており、スタッフらしき男性と女性が立っているのが目に入った。
私は直ぐに駆け寄り、「これは配給用ですか?」と聞いた。
「母が3ヶ月前に大動脈解離で手術をしたばかりで、血圧の薬を飲むために何かお腹に物を入れる必要があるんです。」と説明したところ、「おにぎりはもう全部でてしまいました。」とのこと。
残りはコンビニの菓子パンやお菓子類が目に入ったが、どれも食事とは言えないものばかりだった。
目を泳がせる私に、女性が、「おにぎりはこれならありますが、これで最後です。」とコンビニで売っている鱒寿司のおにぎりとシーチキンのおにぎりを
渡してくれた。
コンビニのおにぎりの添加物がてんこ盛りであることは知っていた。普段なら絶対に手を出さないものだが、他に選択肢がないのだから仕方がない。
背に腹は変えられないと思い、「ありがとうございます。助かります。」と言って女性の手からおにぎり二つを受け取った。
私が直ぐに校長室に戻り、母に渡すと、心底ホッとしている表情を見せた。
薬を飲む必要があり、内心、懸念していたことがわかった。
母の次は父の分の食料確保だ。
私は再度、先ほどの救援物資の配給机に行き、「これもいただいていいですか?83歳の父のために必要なんです。」と聞き、父が好きそうなバームクーヘンを一つもらった。
校長室に戻って父に渡すと、直ぐにその場でむしゃくしゃと食べた。
父と母にしてみれば、宿から小学校までの荷物を持った徒歩移動など、普段と比べると相当な運動量で、お腹が減っていたのだろう。
私はすぐにまた校長室を出て、情報収集のために外に出た。
場内アナウンスでは、
「現在、支援物資を配給しております。なお、七尾市からの配給は一切来ておりません。」
「館内にいるスタッフは同じ地域のボランティアの方です。皆様からの質問に答えられないこともありますので、怒らないでください。」
そんな中、体育館の入り口に並べられた長机にダンボールが置かれ、その中におまんじゅうや和菓子など、和倉温泉の旅館で提供されるような土産物の菓子類がたくさん入っていた。
「どうぞ取ってくださーい。」ボランティアの男性の掛け声に私はダンボールの中に手を伸ばし、できるだけジャンキーではないお菓子を見繕い、両親の夕食の代わりになりそうなものを両手に持って校長室へと持ち帰った。
とにかく、この非常事態で体調に異変が起きてからでは遅い。
私はまるで雛鳥に餌を与えに巣を飛び立っては戻ってくる親鳥のように校長室の中と外を何往復も行き来した。
地震発生から4時間後、避難先に移動してから3時間が過ぎた頃、校長室の時計の針は夜の8時を回っていた。
避難先の物資は時間が経てば経つほど潤沢になっていった。
体育館の外は真っ暗闇だったが、小型のトラックやバンのような車が何台も止まっては物資が配給された。
ペットボトルの水、お菓子類はクッキーのような洋菓子と饅頭のような和菓子、お煎餅類とふんだんにあった。
特に和菓子類は和倉温泉の旅館から支給されたものらしく、全て石川県が生産地だった。
夜9時くらいを回ると、温かいおにぎりが配給された。
ゆかりやわかめが入った手のひらサイズのおにぎりは大きなトレーに50個近く並べられ、上にはサランラップがかけられていた。
人の手で握られたおにぎりは炊きたてのようで、たくさんの人の手が伸びていた。
私はコンビニの小さなバウムクーヘンしか食べていない父を懸念し、すぐに父におにぎりを食べるか確認した。
頷く父に一つ、おにぎりをいただき、父に渡した。
両親の腹具合が解決すると、同じ校長室に待機する他の方々の分まで持っていくようになった。
校長室のテーブルはみるみるお菓子やせんべいでいっぱいになった。
食料や物資を運ぶトラックは夜10時を回っても続々と来た。
地元のスイーツ店だろうか、ロールケーキやアップルパイなども届いた。
フレッシュなみかんやイチゴまで届いていた。
不足していたのは食事となるご飯やお惣菜系だが、レトルトの冷たいおかゆやカレーを紙コップで配るボランティアチームもいた。
後で知ったのだが、和倉温泉の旅館とセブンイレブン・コンビニエンスストアが配給してくれたものだった。
旅館のおもてなしの精神が避難先の小学校まで行き届いたのだ。
和倉温泉は小さな温泉街だ。
避難先は小学校のほか、公民館もあったのだから、旅館の方々はさぞかし大変だっただろう。
元旦の余震が続く夜、断水状態で厨房に立ち、あの温かいおにぎりを握ってくれた旅館の方はどんな思いだっただろう。
厨房の床は食器や割れた窓ガラスの破片が散乱し、危険だったに違いない。
そして、物資を届けるため、亀裂が入る道路の上、真夜中にトラックを走らせる運転手の気持ちはどんなだっただろう。
支援物資を受け取った人たちのうち、どれだけの人が、
その背後にある人たちに向けて思いを馳せ、感謝をしただろう。
避難先にいる人たちは、自分たちの命を守ることで精一杯。
そんな中で自分の命をかけて他人の命を守る人もいる。
いま手元に何かがあるということは、それを作ってくれた人がいるということ。
いま命があるということは、命を育み、守ってくれた人がいるということ。
当たり前のことなどひとつもない。
和倉温泉の人たちには感謝と応援の祈りを捧げよう。