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はじめてのイヤーコーニング
12月26日、一粒万倍日と天赦日が重なる吉日、はじめてのイヤーコーニングを受けてきた。
食への執着を手放すために1回限りで終わりにする、と意図して受けたものの、想定外の展開になった。
これは天の計らいというべきか、いや、きっとそうなのだろう。
それ以外はこの世に存在しないのだから。
人間は食べない方が体にも地球にも優しいのではないか?
前日に3人の友人を自宅に招いて開いたクリスマスディナー会は、21時に終わるはずの予定が、終わったのが23時。
自分で招いた友人との接触によって、自分の中にあるネガティブな周波数があぶり出され、統合しながらの、後片付け。
元はと言えば、プロ並みの腕を持つ料理上手の友人が作る牡蠣の春巻きが食べたかったのと、近所のお気に入りのパティスリーのクリスマスケーキが食べたかった私がいた。
そこで、サイキックのリーディング練習会をクリスマスに開き、グルメ上手な友人を招き、リーディング練習会の後、クリスマスディナー会を開こう!と、私が企画し、開いたクリスマスディナー会だった。
確かに、友人が作った揚げたての牡蠣の春巻きと牡蠣フライは過去最高の美味しさだった。
しかし、それまでの下準備の大変さと言ったら・・・。
牡蠣を洗い、揚げるために大量のペーパータオルで水分を拭き、衣のための卵液を使う。
これらの下準備をたった一瞬で胃袋に消えてしまう食べ物のためだけに、しかも、自分で味わうためだけにやるか、と言えば、答えはかなりグレーだ。
みんなで一緒に熱々を頬張る喜びがあるからこそ、下準備も楽しいものだった。
ところが、大変さのクライマックスは最後の最後に残っていた。
みんなが帰り、一人、台所で皿洗いをし、生ごみを処理しながら、わかったこと。
排水溝のネットが過去最高レベルで汚れているではないか・・・!
油や卵などで、ネットがネバネバ、ギトギト。
それは、普段、私が作る玄米菜食の料理の後片付けとは比にならないくらい大変だった。
軽いショックを受けながらも、次の日のイヤーコーニングセッションを万全の体調で受けるためにも、目の前の後処理に集中した。
淡々とお皿やグラスを洗い、部屋を現状復帰し、大量に出た生ごみをまとめて外に出し、掃除機をかけ、風呂に入り、統合してからベッドに入ったのが午前2時過ぎ。
翌朝はバディとのソースリストがあったので、6時には起床したが、普段は夜は食べないどころか、乳製品も揚げ物も年に数回しか食べない私。
前夜にチーズや牡蠣の春巻きと牡蠣フライに鍋に、仕上げにケーキとコーヒーときたら、胃腸に負担がかからないわけがない。
案の定、目が覚めたら、胃が鉛のように重く、痛みさえ感じた。
人間が食べない方が、体にも地球にもベストなんじゃないか・・・?
人間の食欲を満たすためだけに、大量の食材や資源を消費して料理することは、ゴミを出して地球を汚すだけではない。
体にとって必要以上の量を食べることで、消化器系への負担が大きいことに疑問を抱かざるを得なかった。
食への執着を手放す意図で受けたイヤーコーニング
こうして、最善を尽くしたものの、身も心も万全のコンディションとは言えない状態でイヤーコーニングのセッションを受けることになった。
サロンは自宅からなんと徒歩6分というアクセスだった。
Googleマップ通りに歩いていくと、普段は通り過ぎている知らない小道に誘われた。
「こんなところがあったのか・・・。」
一本曲がっただけで次元が変わったかのような静寂な空間がそこにはあった。
自宅とはまるで違うエネルギーに驚きながらも、予約時間の9時45分の10分前に到着した私は、事前連絡のあった通り、予約時間ぴったりにインターホンを押すべく、グラウンディングとセンタリングをし、呼吸を整えた。
イヤーコーニングのセッションは約3時間で3万3千円と、決して安い値段ではない。
前日のクリスマスディナー会で、食への執着が自分の体の消化器系にとっても地球にとっても多大な負担を強いていることが見えたわたしは、セッションを受ける目的をクリアにし、こう意図した。
「今回のセッション1回で食への執着を手放し、終わりにする。」
想定外の一言に唖然「それってジャッジしてますよね?」
予約時間になり、ドアを開けると、そこには小柄なショートカットの女性が立っていた。
広々とした空間に通され、自己紹介とともに、「どなたからのご紹介ですか?」という質問に答えてく。
私がつけているペンダントを一目見て、「あ、スピリチュアルな方ですね」と一言。
そして、「なぜ、イヤーコーニングを受けたいと思ったのか」という質問に答えることになるのだが、そこからの話の展開が面白かった。
わたしは、イヤーコーニングがプラーナ呼吸のスシュムナ菅をクリアにすることを学んだことを伝え、前日のクリスマスディナー会の話をし、自分のためにも地球のためにも、食への執着を手放したい、と伝えた。
私の話を興味津々の様子で聴いていた先生は、キョトンとした面持ちで口を開き、こう言ったのだ。
「それって、ジャッジしてますよね?」
それを聞いて、
「あ、はい。確かに。執着している私はダメだ!って、ジャッジしていました。」
と、すんなり認めるわたしがいた。
あんなにジャッジは眠りだから手放す必要があるって学んだのに・・・!
自分で自分に驚き、ポカンとしてしているわたしを見ながら、続けて先生はこう言った。
「いいじゃないですか。ご自分の気持ちに素直になれば。」
私:「へ?」
先生:「自分ご自分に厳しすぎるのではありませんか?」
私:「・・・・。」(絶句)
先生:「私たちは人間なんです。みんな出っ張ったり引っ込んだり、なんて言うか、いびつなんですよ。」
私:「・・・・。」
先生:「他の人はこれくらいでよしとするのに、Relaさん(わたしのこと)はここまでやらないとやったことにならない。」
私:「た、確かに、エジプトに行った時、セラピス・ベイから、『もっと自分に優しくなりなさい。』と言われました。それから、よく、『自分に厳しすぎる。』って言われたりします。」
先生:「そうでしょう。せっかく素敵なのに、もったいないなぁ、と思います。」
これを聴いた私は、耳を疑う思いだった。
その時は呆然して思考のブレーカーが落ちた状態だったが、終わった今ならこう思う。
初対面で、たった数分の会話で、私の本質を見抜くなんて・・・!
サイキックだ・・・。
期待は思考を生む
印象深かった先生の一言がもう一つある。
「紹介者の方から色々聞いているかも知れませんが、期待は手放してくださいね。
期待は思考を生みますから。」
この言葉に、
「はい。」
と素直に答えたものの、後になって振り返るほどに深さを感じる。
初対面で本質をつかれた上に、一言一言の発言の重みに呆然としていると、
「さ、こちらへどうぞ。」
とまるでそよ風のように柔らかく施術ベッドに誘われたのだった。
御神事のようなタオルワーク
ベッドに横になろうとすると、見慣れた布が敷かれている。
なんと、私が10年以上前から使っているベッドシーツと同じブランドの布ではないか。
「あ、これ、私、持ってます!」
と思わず言うと、「あ、そうですか。」と素っ気ない返事。
その後、ベッドに横になると、ふさっ、ふさっと両目をタオルで覆われる。
この時点で気づいたのだが、タオルワークをしている先生の気配が限りなく薄い。
まるで動いているのが空気だけのようなのだ。
目をつぶっているので、実際の動きは見えず、気配だけだったが、無駄な動きが一切ないタオルワークは静寂そのもので、まるで御神事のよう。
「このタオルワークだけでも学びたい。」
そう思いながら、施術台に仰向けになると、おへそを出してください、と言われる。
戸惑いながらもおへそを出すと、そこにぐいと強めにコーンを押し付けられた。
前世は炎に祈りを捧げる巫女だった?
おへその次は、右耳にコーンをあてがわれ、チリチリ、ジリジリと炎が燃えていくのがわかる。
なんだか、このまま脳みそまで焼けてしまうんじゃないか、という一抹の不安が
過ぎりつつ、意識が遠のいていく感じがする。
気がつくと、あるビジョンが脳内スクリーンに映し出されていた。
最初は、真っ赤に燃えたぎる炎のビジョン。
そして、一人の白い衣装を着た女性が松明のように空高く掲げられた炎を仰ぎながら、くるくると舞っている。
その舞を眺めながら、「これって、もしかして、私なのかな・・・?」との思いがよぎる。
もしかして、前世は炎に祈りを捧げる巫女だったのかな?
そんな思いとともに意識はだんだんと遠のいていった。
思考と部屋の騒音のダブルパンチという拷問
イヤーコーニングが燃え終わり、ふと、先生の気配がなくなり、施術台から離れていくのがわかった。
そのまま施術台に横たわるわたしの脳内スクリーンには、脈略のない思考がぐるぐると回っていた。
「なんなんだ、この怒涛のような思考は・・・。」
まるで壊れた映写機のように脈略のない思考が流れ続けるさまを、ただ仰向けになって眺めている時間。
これって、ある意味、贅沢だな、と思った。
同時に、この脈略のない思考についていき、振り回されている自分も見えてきて、空恐ろしい気持ちにもなった。
そうするうちに、不意に部屋の中にクィーーンという不思議な騒音が鳴り響いた。
普段の日常生活で耳慣れない音に、最初は耳を疑ったが、その音は鳴り止むことがない。
思考の雑音に加え、部屋の騒音が鳴り響く中、ただ横たわっている姿勢がだんだんと苦痛にさえなってきた。
施術中でさえなければ、ガバッと起き上がりたいような衝動に狩られながら、それでも、ただただ仰向けになり、思考と部屋の騒音のダブルパンチに耐えるわたしがいた。
不思議なことに、その騒音は、セッションが終わると同時にピタリと止んだ。
音が止むことで、部屋の空間には元の静寂さが蘇り、セッションが終わって思考の騒音からも解放された私は、私は心底ホッとした気分になった。
一番欲しかった感覚
騒音が鳴り止むと同時に、先生の両手が私の方に軽く触れた。
「どんな感じでしたか?」
施術台から戻り、テーブルに着くと、先生が少し怪訝そうな表情で聞いてきた。
私は、思考がうるさかったが、その自動思考をただ眺めている自分に気づけたこと、そして、部屋の騒音が気になったこと、そして、セッションが終わるタイミングで騒音が鳴り止んだことが不思議に思ったことを伝えた。
先生曰く、あのような騒音はこれまでに一度もないとのこと。
「年末のマンションの清掃かしら?」と首を傾げていた。
私は最後の感想に、こう付け加えた。
「思考をただ見ているスペースを感じました。
私が欲しかった感覚は、これだったのだ、と。」
その時の先生はホッとした表情を見せたのが印象的だった。
私:「自分でもコントロールできない自動思考が苦しいんです。」
先生:「『よしよし』といってあげたらいいかも知れないですね。」
私:「・・・はい。そうですね。」
先生:「よろしければ、少し続けた方がいいかも知れないですね。」
この言葉を聞いた時、1回の体験で終わりにするつもりだった私は、少しだまってしまった。
今思うと、部屋の騒音は、私の内側の思考の雑音の反映ではないかと思うのだ。
先生が、もう少し続けた方がいいと言った理由がわかる気がした。
セッション後、氏神様参拝で気づいた思考の静けさ
セッションを後にした私は、まっすぐ帰宅せず、歩いて10分ほどの氏神さんを参拝してから帰宅することにした。
三礼三拍手をしてスサノオノミコトにご挨拶すると、途端に思考が静かな自分に気がついた。
そのまま神社を後にし、家に向かう道中も、思考が静かなのだ。
セッション中、怒涛のように流れていた思考はどこに言ったのか、と思うくらい、思考が静まり返っている。
帰宅すると、先生の言葉を思い出した。
「せっかく近いので、家に帰られたら、そのまま寝るとよく眠れると思いますよ。遠くからおいでの方は、近くにホテルを借りて泊まるくらいですから。」
え?
わざわざ寝るためだけにホテルを予約して泊まるって、どういうこと???
興味が湧いたわたしは、実験的に、帰宅後は何もせず、そのまま寝てみることにした。
思考が静かなまま寝たらどうなるのだろう・・・。
私は服を着たまま、ベッドに身を投げた。
午後1時から夕方5時まで4時間の爆睡
どれくらい寝たかわからないが、寝たいだけ寝たことは確かだ。
ベッドから起き上がると、カーテン越しの窓の空はほんのり薄暗くなっていた。
時計の針は5時を指そうとしている。
ぶっ続けで4時間寝たということだ。
前日の夜の食べ過ぎ飲み過ぎに加え、寝不足だったこともあり、内臓が相当疲れていたせいもあるだろう。
私の中で、体調が万全のときに同じセッションを受けたらどうなるんだろう、という好奇心のようなものが生まれた。
1回だけで終わりにするつもりのセッションだったが、次に繋がる予感がした。
思考との距離が鍵
その日は、寝すぎで頭がぼーっとし、夜の9時には再び眠気が襲ってきた。
お風呂に入り、11時くらいまでにはベッドに入ると、いつもよりぐっすり眠れた。
何も考えない贅沢を味わてみようと、目覚ましをかけずに寝たら、翌朝、ベッドから起きた時には10時近くを回っていた。
その日一日も、思考が静かな自分がいた。
ストンと思考のブレーカーが落ちている感じなのだ。
セッション中はあれだけうるさかった思考が沈静化していることが不思議で、わたしはますますイヤーコーニングというものに興味を持つようになった。
自宅で展開しているアクセスバーズのヒーリングに加え、イヤーコーニングを加えたらどうなるだろう?
欲張りかもしれない。
でも、思考を落とすことには飽くなき追求をしたい。
考えすぎの権化のようなわたしにとって、思考との距離は魂のテーマである気がした。
年明け、また予約をしよう。
こうして、最初で最後にするはずのイヤーコーニングのセッションは、想定外の展開を見せることになったのだった。