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江戸時代のマルチクリエイター:平賀源内の生涯と功績|れきたんラジオ#002

こんにちは、歴史探求倶楽部(@rekitan_club)です。

今日は、科学者・発明家・文化人などマルチクリエイターとして活躍し、江戸時代中期に革新をもたらした平賀源内を取り上げます。源内の生涯とその功績を詳しく追い、彼がどのようにして時代を超える偉人となったのかを探ります。

天才源内の誕生と幼少期

平賀源内(1728年 - 1780年)は、江戸時代の讃岐国(現在の香川県さぬき市)で生まれました。足軽身分の白石家の三男として育ち、幼少期からその非凡な才能を周囲に示し始めました。

13歳の頃には、からくり掛け軸「お神酒天神」を作り出し、その巧妙さと創造力で人々を驚かせました。これが源内の天才としての最初の足跡であり、この頃から本草学(薬物学・博物学)を学び始め、儒学や俳諧も嗜み、多才な才能の片鱗を見せていました。

長崎遊学での科学技術の習得

源内の知識欲は無尽蔵で、より広い世界を求めて、1752年頃に長崎へ1年間遊学します。身分の低い源内がなぜ遊学に行けたのかについては諸説ありますが、はっきり分かっていません。

鎖国下の長崎で、源内は蘭学・医学・油絵などの西洋の学問・技術に多く触れ学びます。帰京後は、妹婿に家督を譲ったあと、量程器(歩いた距離を測る器具)や磁針器(方角を測る器具。オランダ人製作の同器具を模倣したもの)を製作してます。

その後、大坂、京都で学び、さらに江戸で本草学者の田村元雄(藍水)の門下で学び、漢学を習得するために林家でも学び、さらに2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学びます。

源内は自身の学びを活かし、日本最初の薬品会(薬種・物産を展示する会)を開催するなど、科学技術の普及と知識共有に努めました。

高松藩は、再び源内を家臣として召し抱えようとしますが、源内は辞退した為、それ以後、幕府・他藩を含め仕官が不可能となります。

フリーランスとして鉱山開発・土木工事に従事

その後、1761年に伊豆ので鉱床を発見したり、物産博覧会(薬品会)をたびたび開催し、この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになります。これらを通じて『解体新書』で知られる杉田玄白や中川淳庵らとも交友します。

1766年から武蔵川越藩の依頼で中津川(現在の埼玉県秩父市)で鉱山開発を行い、石綿を発見しました。秩父においては、炭焼や荒川通船工事の指導なども行った記録が残っています。

1773年には出羽秋田藩主に招かれて鉱山開発の指導を行うため阿仁鉱山(現在の現在の秋田県北秋田市)を訪れています。

発明家としての活動:エレキテルと火浣布

源内の名前が広く知られるようになったのは、2度目の長崎遊学で持ち帰ったエレキテル(静電気発生機)を修復・復元に成功たことによります。一般公開することで江戸の人々の関心も集めました。

また中津川鉱山開発の際に発見した石綿を布にしたものを、燃えない布=火浣布(かかんぷ)と名付けて江戸幕府に献上しました。

田沼意次との関係:政治と経済の交錯

源内は江戸の政治と経済に深く関わりました。特に、幕府老中・田沼意次の政策下で殖産興業を推進し、鉱山開発や新製品の開発に力を注ぎました。

源内の活動は、田沼の革新的な政策を支える一方で、1781年の田沼意次失脚と共に評価を下げ、鉱山開発の失敗で大きな借金を負うことになります。

文化人としての足跡:文学と出版

源内は科学者や発明家としての顔だけでなく、文化人としても多大な影響を及ぼしました。戯作者として『根南志具佐』や『風流志道軒伝』、浄瑠璃『神霊矢口渡』といった作品を執筆。これらは当時の社会を風刺し、人々に笑いを与えると共に思考を促す内容でした。

さらに、源内は俳号「李山」として俳句も詠み、多才な文化活動者としての側面も持っていました。

広告の先駆け:蔦屋重三郎とのエピソード

源内のもう一つの重要なエピソードに広告への才能があります。源内は「福内鬼外」の筆名を使い、蔦屋重三郎が携わった吉原細見『嗚呼(ああ)御江戸』の序文を提供。この序文では、遊女の選び方や吉原の人気について描写され、現代のマーケティング手法に通じるものがありました。

この他にも源内は、現代でいうところのコピーライターのような活動も見受けられます。例えば、「嗽石香」という歯磨き粉発売の宣伝文や、清水餅の広告コピー、夏期に売れない鰻の販促のため「丑の日」のキャッチコピーなどを手掛け、商品の宣伝方法に革新をもたらしました。

晩年に見る挫折と最期

しかし源内は成功だけではありませんでした。事業の失敗や生活苦が重なり、1779年に工事請負の件で、設計書の取り扱いについて町人への殺傷事件を起こしてしまいます。その結果、投獄され、獄中で破傷風に罹患し、52歳の生涯を終えました。

まとめ:江戸時代のマルチクリエイター:平賀源内

いかがでしたでしょうか?平賀源内は、本草学者として薬品会を開催、エレキテルの復元や火浣布の開発など、科学技術分野で貢献。また、戯作者として『根南志具佐』や『風来志道軒伝』を執筆し、文芸分野でも才能を発揮。さらに、西洋画や源内焼など、文化面にも影響を与えました。

ご視聴いただきありがとうございました。

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