
天下取りを影から支えた名将、藤堂高虎:変革の時代を生き抜いた男の生涯
こんにちは、歴史探求倶楽部(@rekitan_club)です。
今日は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、巧みな処世術と卓越した能力で名を馳せた武将、藤堂高虎を取り上げます。
7度も主君を変えながらも、常に主君に忠誠を尽くし、その才能と知略で天下取りを陰ながら支えた名将です。築城の名手としても知られ、その戦略と美学は、現代においても高く評価されています。
今回は、藤堂高虎の生涯を振り返りながら、具体的なエピソードを交えつつ、その魅力的な人物像に迫ります。
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生い立ちと出自:若き日の逸話と大名への道
藤堂高虎は、1556年2月16日、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)に生まれました。藤堂家は元々土豪の出自で、14歳で家督を継承します。幼少の頃から武勇に優れていたとされ、13歳で兄よりも背が高く、筋骨逞しい身体であったと伝えられています。
戦国時代の活躍:主君を転々としながらも才能を開花
高虎は、まず浅井長政に仕え、1570年の姉川の戦いでは父と共に初陣を飾り、その後の宇佐山城攻めでも活躍し武功を上げます。
その後、1573年の小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、磯野員昌、信長の甥・織田信澄と、主君を転々としていきます。
1576年には羽柴秀吉の弟・秀長に才能を認められ、高虎にとって大きな転機となりました。
秀長の下で、一揆平定、中国攻めや、賤ヶ岳の戦いなどに従軍し、武功を重ねました。賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政を銃撃して敗走させるなど、戦勝の端緒を開く活躍を見せました。その後も、小牧・長久手の戦いや紀州征伐、九州征伐などに秀長と共に秀吉の天下統一に大きく貢献しました。
1586年、秀吉は、関白秀吉に謁見するため上洛することになった徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に作るよう秀長に指示、秀長は作事奉行として高虎を指名しました。
高虎は渡された設計図に警備上の難点があるとして、独断で設計を自費で変更します。のちに家康に設計図と違う点を尋ねられると、「天下の武将である家康様に御不慮があれば、主人である秀長の不行き届き、関白秀吉様の面目に関わると存じ、私の一存で変更いたしました。御不興であれば、ご容赦なくお手討ちください」と返した。家康は高虎の心遣いに感謝したという逸話が残っています。
秀長が死去すると、甥で養子の羽柴秀保に仕えますが、秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ秀吉が生駒親正に説得させて召還したため還俗します。慶長の役では水軍を率いて参加し武功を上げます。
関ケ原の戦い:天下取りを見抜き、徳川家康に接近
秀吉の死後、天下取りの機を見抜いた高虎は、徳川家康に接近し、東軍として関ケ原の戦いに参戦しました。
家康に接近した背景には、高虎が元々家康と親交があったことや、豊臣家の家臣団が武断派と文治派に分裂する中で、高虎が家康側に与したことなどが挙げられます。
関ヶ原の戦いでは、大谷吉継を相手に戦闘を行い、その後、石田三成とも戦ったとされています。また、留守中の伊予国における毛利輝元の策動による一揆を鎮圧するなど、戦後処理にも貢献しました。
これらの功績により、家康から宇和島と今治、二つの城を与えられ、20万石の大名となりました。
江戸時代の活躍:築城の名手として才能を発揮し、藩政にも尽力
秀吉の時代から黒田孝高、加藤清正と並び、「築城三名人」の一人として知られる高虎は、今治城や津城、伊賀上野城や丹波亀山城など、生涯で22の改修や築城に携わりました。
特に、今治城では新たに層塔型天守を創建し、単純な構造、用材の規格化などにより工期短縮が図られ、移築も容易であるという利点があり、その後のスタンダードになります。
江戸時代に入り、高虎は伊勢津藩初代藩主として藩政の安定と発展に尽力しました。1614年からの大坂冬の陣では徳川方として参加、翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦います。
徳川家康からの信頼も厚く、病状が悪化した家康は堀直寄を呼び、「国家に万一のことがあれば高虎を先鋒とし、彦根の井伊を二陣とせよ。汝はその中間に備えて横槍をせよ」と遺言したとされます。
1616年の家康死去の際には枕元に侍ることを許され、家康没後の第2代将軍徳川秀忠も高虎を信頼し、御三家を交えての歓談などでしばしば高虎を招いています。三代将軍徳川家光の代まで使えることになります。
1630年10月5日に江戸の藤堂藩邸にて死去しました。
まとめ:変革の時代を生き抜いた名将、藤堂高虎
いかがでしたでしょうか?
藤堂高虎は、時代の変革期を生き抜いた名将であり、卓越した能力と人間力で、歴史に名を刻みました。7度も主君を変えましたが、決して不忠義者などではなく、秀長・家康など惚れぬいた主君には、とことん忠義を尽くした人物と言える思います。
ご視聴いただきありがとうございました。
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