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預言者フードとアードの民~ヘブル人の故郷を探る⑥~
前回⇒帝国の来襲と自然災害。
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします!
では、さっそくはじめます。
アラブの神話「アードの民とイラム」
そして神は、アードの民のもとへ彼らの兄弟であるフードを遣わした。
(コーラン11章50節冒頭)
イスラム教の啓典コーランに登場する預言者フード。
彼は神によって「アード」という民のもとへ遣わされ、偶像崇拝をやめ、行いを改めて神のもとに立ちかえるよう、人々に促した。
しかし、アードの民はフードの呼びかけを拒絶し、嘲笑した。
あなたの主が、いかようにアードの民を、高い柱を持つイラムを扱ったかを、あなたは見ようとしないのか?
今ある町々の中に、それと似たものが造られようとしたためしはない。
(コーラン89章6~8節)
アードの人々は屈強であり、また裕福であった。
彼らは「千の柱のイラム」とも呼ばれた都「イラム」に暮らており、そのように壮麗な都市はふたたび建てられることはなかった。
その「イラム」を、突如、嵐が襲う。
人々が預言者フードを拒絶したのちのある日、天候が急変する。
暑かった気候は凍てつく寒さとなり、暴風が吹き荒れた。
暴風は八日七晩猛威を振るい、建造物は破壊され、人々はうつろになったヤシの木の幹のように倒れていた。生き残った者はなかった。
(コーラン69章6~8節)
***
以上が、コーランに記された預言者フードとアードの民の話である。
この預言者フードだが、イスラムの伝承によれば、彼は聖書に登場するヘブル人の祖エベルと同一人物であるという。
そして、アードの民とその都イラムは、南アラビアに存在した古代民族とその都であるとされている。
神によって滅ぼされたイラムは、今も砂漠の砂の下にある。
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……果たして、本当にそうなのだろうか?
というのも、「アード」という言葉だが、これは単に「古代の」という意味であり、民族名ではないという説がある。
それに、都市の名前である「イラム」だが、古代において「町」を意味する一般名詞「ウル」にセム語の名詞の語尾mがついただけのようにも思える。
イラムは都市の名前ではなく、単に「町」や「都」を意味しているのかもしれないのだ。
そうなると、アードの民とイラムというのは、「古代の民と彼らの町」という意味であるに過ぎなくなる。
また、イラムは別名「ウバルubar」とも呼ばれることがある。
だが、この名称はコーランには登場しない。
ウバルという地名は、ローマ帝国時代のプトレマイオスの地図に記載されているのだという。
古代アラビアにウバルという町はあったかもしれない。
だが、それが「イラム」と同じであるという証拠は皆無だ。だから、ウバルがイラムの別名であるのか、はたまた、別の滅びた都市の名前がイラムの伝説と習合してしまったのか、さだかではない。
現在、ウバルに比定される遺跡は南アラビアのオマーンにある。
しかし、そこにあるのは陥没穴と要塞跡であり、都市と言える規模の遺跡ではまったくない。
オマーンのドファールにあり、現在ウバル遺跡として観光地化されている場所は、ウバルでもイラムでもない、別の何かである。
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また、イラムはヨルダンのワディ・ラムにあったという説もある。
ワディ・ラムの一角で、セム語の古代文字で〈イラム(ʔrm)〉と〈アード(ʕd)〉と書かれた碑文が見つかったからだという。
だが、正直、あれを「イラム」の発音で読むべきかどうかは疑わしいと思っている。「アラム」とも読めるからだ。
それに、書かれた文字は古代ローマ帝国とほぼ同時代のものであり、ローマ帝国の版図に含まれていたワディ・ラムに伝説のイラムのような壮麗な都があったならば、ローマの記録に残っていなくてはおかしいし、それを建設できるくらいの強力な民族がいなくてはおかしい。
だが、そのような記録も痕跡も残っていない。
「アードのアッラートの神殿を建てた」という文章が見つかっているということだが、このような文章があること自体、そこに「アード」がいないことの証左になるのではないだろうか?
「アード」を「古代」の意味で使っている場合は、この文章は「古代の女神の神殿を建てた」という意味で受け取ることができる。
ほかにも、「アードの血筋の○○」という翻訳文があるが、わざわざ血筋を名乗る場合、引っ張り出すのは古の英雄や過去の王侯貴族である。
総合的に考えて、ローマ時代にはすでに「イラム」も「アード」も過去の伝説となっていた。
だから、ワディ・ラムに伝説のイラムがあったとするのは早合点だと思う。せめて遺跡が出てこなければお話にならない。
たぶん、ワディ・ラムにイラムはない。
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「イラム」はどこに
神々とされる偉大な先祖と、彼らが生きていた栄光の時代の神話をもつ民族は多い。
アラブの民にとっての偉大な先祖とその栄光の時代を象徴する神話が、イラムとアードなのだろう。
アラブ人の伝承に残るイラムとは、実際には紀元前2千年ごろに大嵐によって破壊されたメソポタミア周辺の都市であり、イラムがあった場所の設定が南アラビアになったのは、ヨクタンの子孫が南アラビアに移住したあとのことではないだろうか?
もしそうだとするなら、預言者フード、またの名をエベルと呼ばれるセムの子孫は、いったいどこの町に遣わされたのだろうか?
当時の覇権国、メソポタミア南部のシュメールのウルか。
はたまた、シリア北部のエブラなのか。
おそらく、エブラのほうだろう。
なぜかと言うと、コーランには「アードの民のもとへ彼らの兄弟であるフードを遣わした」と書かれているからだ。
大嵐に見舞われたシュメールのウル第三王朝はセム系ではない。
エベルは同胞のもとへ遣わされたのだから、やはりヘブル人の名前と同じような名前の人々が暮らしていた都市エブラに遣わされたとするのが妥当である。
この筋書きで行くと、エベルはエブラに住んでいたわけではない。
彼の住まいは滅びた町ではない。
エベルは野に暮らす遊牧民であったのかもしれない。
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イスラムの伝承には、預言者フードと生き残った彼の追随者が、南アラビアのハドラマウトに移り住んだというものがある。
しかし、フードがエベルなら、その伝承は誤りであるだろう。
エベルの名を冠するヘブル人はアラムの地にいたのだから。
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アブラハムと彼の兄弟は、アラムの地の生まれである。
アブラハムは父テラから離れるまでの75年間、アラムに住んでいた。
それが、彼の子孫のイスラエル人が彼をアラム人とよぶ所以である。
ウル第三王朝の崩壊は紀元前21世紀頃とされている。
アブラハムが生まれたのは紀元前の20世紀。
エベルが神に遣わされた預言者であったなら、神による大嵐が都市を襲うことは前もって知らされていたはずである。
もともと住んでいたであろう土地に留まらなかったということは、そこも嵐に襲われたということだ。
嵐が来る前に、エベルは少数の人々とともに、都市国家エブラの支配領域からユーフラテス川を越えて、アラムの地の安全な場所へ避難した。
その中に、アブラハムの父テラも含まれていた。
だから、アブラハムはアラムで生まれたヘブル人なのである。
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まとめ
今回浮かび上がったストーリーはこのようなものである。
───ヘブル人の父祖エベルは、都市国家エブラの支配領域で遊牧生活を送っていた。
彼は神に遣わされた預言者として都市エブラを訪れた。
しかし、屈強なうえに裕福で、現状に満足している人々は、エベルの語る言葉をただうるさく感じて退けてしまう。
そこで神はエベルに避難を促し、彼と神を信じる少数の人々は、嵐の前に都市と生まれ故郷をすてて安全な場所に逃れた。
その後、一週間もつづく猛烈な嵐がエブラの地を襲った。
建物は崩壊して砂に埋もれ、風に飛ばされた人々は地に倒れて埋葬されることもなく朽ちていった。
エベルと彼の追随者はアラムの地で遊牧生活をつづけ、やがて、アブラハムが生まれる───。
アラムの地での生活は長くつづいたものの、エベルやテラにとっての故郷は都市国家エブラの領域であり、そのため子孫はそこを「エベルの地」と呼ぶようになった。
遊牧民は痕跡を残さず境界を越えて動き回るため、エベルと親族が暮らしていた範囲を正確に導き出すことは難しい。
ただ、「詳しく語られていないために不可解な謎」の理由を考えてみると、少しは答えに近づくことができるのかもしれない。
その謎とは、
「なぜ、アブラハムの父テラはカナンへ行こうとしたのか?」
次回からは、エベルと現在のイスラエルであるカナンの地のつながりについて考えていく。
*** ***
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今回は、コーランに記された伝承から、ヘブル人がアラムの地にいた理由を考えてみた。
アラブ人とヘブル人は兄弟民族である。だから、互いの伝承を補完する情報を互いに持っていたとしてもおかしくはないのである。
イスラム教徒は、聖書は長いあいだに書き変えられて初期の原形をとどめていない書物であると教育されて誤解しているが、聖書は2千年以上前の写本が残る書物であり、書き変えどころか、一字一句間違いのないよう、文字数を数えて「何番目の文字は〇の文字」という面倒なチェックを入れながら写本を繰り返してきたのである。だから、紀元前の写本と現代の写本とのあいだに変化がないのだ。
それに、書き変えるなら自分たちに都合のいい内容にしそうなものだが、聖書はひたすらイスラエル人をディスりまくる書物である。ヤコブ(別名イスラエル)の息子たちなんか酷いものである。あそこまで先祖の恥を全世界にさらすとは、イスラエル人はマゾなのだろうか?先祖の恥を記録抹消刑に処さずに残しつづけるのは、それが史実だからではないのだろうか?
書かれた時代が離れすぎているため、聖書とコーラン、どっちが正しいなどと論じること自体バカげている。
するべきは批判ではなく、フュージョンである。
今回はそれをやらせてもらった。
争わずに共存したほうがお互いのためである。
……日韓もね。
ユーン、カムバーック。
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