子供にだけ見える秘密の道:ショートエッセイ
近所の山を歩いていたときのこと、小さな子供連れの親子が前を歩いていた。
4歳くらいの子供が、ときどき道からはずれて藪の中へ進もうとするので、そのたびに親は「そっちじゃないよ」と言ってつれ戻していた。
その様子を見て、筆者は「ああ、見えているんだな」と、子供時代のことを思い出したのである。
筆者が子供のころは家に遊び道具やおもちゃはなかったので、暇になるともっぱら近所をふらふらと歩きまわっていた。
田舎だから道の数も少なくすぐに飽きるので、ときどきひとりで山に入っては探検をしていた。
親の世代が子供のころは、燃料はすべて山から調達していたので、切り出した木を運ぶための馬車道が山奥まで通っていて、牛や馬の飼料にするために草がかられ、焚き付けや苗床を作るために落ち葉も掃き集められて、山全体がこざっぱりとしてきれいだったそうだ。
しかし、筆者が子供のころには風呂は薪だったが台所はガスになり、牛や馬は耕運機やバイクにかわり、すでに馬車道は消えて藪が増え、山は荒れていた。
筆者はイノシシが通る獣道をたどって山の中へ入っていった。
子供がひとりで山のなかへ行くなんて、と今の人は思うだろうが、大人たちも子供がひとりふたり見えなかろうが、そこまで気にすることもない。
日が暮れたら帰ってくっぺ、と、のんきなものだった。
熊はいない地域なので、野犬にさえ出会わなければ特に危険はなかった。
イノシシもイタチも鳥たちも、あえて姿を現したりはしない。人が近づいてきたとわかると向こうから逃げてくれる。逃げないのはシマヘビくらいであった。
田舎育ちなので、道がわからなくても帰れなくなるということはなかった。どこにいても方角はわかったので、不安になったことはない。
幼い筆者にとって山は味方であった。
人間は、ともすると殴ったり襲ったりしてくるかもしれないので、人ひとりいない山の中はむしろ安心できる場所であったのだ。
実際、いつも何かに守られているという感覚があった。
神様がいたのだろう。
人ではなく、神が管理する領域なので、すんなりなじんで、自分もその一部になっていた。
子供は神のものというのは、こういう意味もあるのだろうか。
たいていは1、2時間散歩して帰ってきた。
特に見どころもない、岩場も絶景もない、田舎の普通の低山なのだが、行ったことのないほうへ行ってみるというのはいつでもワクワクするものである。
山の中には縦横無尽に獣道が走っていて、近所で通ったことのない道の数では、人が通る道よりも獣道のほうがずっと多かった。
だから、その分、ワクワクも多かったのだ。
ところが、である。
大きくなると、獣道が見つけづらくなってしまった。
見つからないわけではないのだが、小さいころは当然のように見えていた獣道が、探さないと見えないのである。
獣道は人が通る道をまたいで山から山へ、藪から藪へとつづいている。
だから、人が通る道のところどころに獣道の入り口があるわけである。
昔は簡単に入り口を見つけられたのに、今では意識してよく探さないと見つからない。
背が高くなり、目線が変わったからである。
子供にしか見えない道というのは、たしかにあるのだ。
前を行く、4歳くらいの男の子にはそれが見えていたのだろう。
大人からすれば、明らかに道からそれたほうへ何度も行こうとする。
ここはイノシシの多い田舎の低山である。獣道は多いはずだ。
それが、あの子供にだけは、当然のように見えている。
その様子を見て、梅干しをなめながら棒切れを振りまわして蜘蛛の巣をはらいはらい山を探検して歩いていた子供時代をなつかしく思い出したのだった。