素人でもわかる永世中立国#5 ~破られた中立2~
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今回はシリーズ「素人でもわかる永世中立国」の第5回でベルギー・ルクセンブルクの中立侵犯の続きについて解説していきましょう。
【前回の記事】
第1回: https://note.com/rekishinoakuma/n/n9ef917c745ed
第2回: https://note.com/rekishinoakuma/n/nbf75b7523edc
第3回: https://note.com/rekishinoakuma/n/n06fa584ad8b4
第4回: https://note.com/rekishinoakuma/n/n35ce83a18cf8
【1914年9月4日の悲劇】
1914年に開戦直後の第一次世界大戦の陣営の様子
赤:同盟国 青:連合国(協商国)
ドイツは当時同盟関係にあったフランス・ロシアに挟まれる形となった
1914年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツはフランス・ロシアと交戦することになりましたが、ドイツは同盟関係であったフランス・ロシアに東西で挟まれてしまい二方面での戦いを強いられました。
そこでドイツは対フランス・ロシアの二方面での戦いを有利に進めるべく「シュリーフェン=プラン」と呼ばれる軍事作戦を採用しました。「シュリ―フェン=プラン」とはドイツ軍の全力を西部のフランスに集中してフランスに大打撃を与えてからロシアに全力集中するという作戦でした。
第一次世界大戦でシュリ―フェン=プランの一環で行われたベルギー・ルクセンブルク侵攻
交戦国同士であったフランス・ドイツの中間に位置したことが災いしてしまった
「シュリ―フェン=プラン」を実行するにあたりドイツにはある問題がありました。フランスがドイツとの国境地帯に強固な要塞網を構築していたため迂回してフランスに侵攻する必要がありました。そこでドイツはその迂回路として永世中立国であったベルギー・ルクセンブルクに侵攻しその中立を侵害しました。
ドイツは1839年・1867年のロンドン条約でベルギー・ルクセンブルクの中立を保障したプロイセンの後継国家であり、両国の中立を保障するはずのドイツがその中立を侵害してしまったのです。
各条約・国際法におけるドイツによるベルギーの中立侵犯の解釈
一見違法に見えるが見方を変えれば合法にもなりえる
ではなぜ周辺国による保障を受けたのにも関わらずベルギー・ルクセンブルクの中立は侵害されてしまったのでしょうか。そこには国際法の抜け穴が存在していました。
1839年のロンドン条約の当事国であったドイツは➀永世中立国の中立を侵害しない義務・➁永世中立国に開戦しない義務を含むベルギーの「中立を尊重する義務」を負っており、また1905年のハーグ第5条約(通称:陸戦中立条約)では「中立国ノ領土ハ、不可侵トス」と定められていることからドイツによる中立侵犯は違法となります。
ベルギー侵攻に至るまでのドイツ・ベルギーの動き
ドイツの要求を最後通牒と解釈すればベルギー侵攻は合法といえる
その一方でドイツは1914年9月2日にベルギーに対しドイツ軍のベルギー領通過の許可を要求する通牒を出し、翌3日にベルギーが拒否したことによってその翌4日にドイツはベルギー領に侵攻しました。ここでドイツが9月2日にベルギーに出した通牒を最後通牒だと解釈した場合、ベルギーがその最後通牒を拒否した時点でドイツとベルギーは交戦国となり、ベルギーは中立国ではなくなったと捉えることが出来ます。
さらに国際法はその発展段階においては国家が望むときにはいつでも戦争に訴えることを明らかに許容しているため、交戦国の中立国に対する戦争は自由であり、交戦国は中立国に開戦することでその中立制度による保護を合法的に奪うことが出来るというという主張もできるのです。
【二度目の中立侵犯】
第一次世界大戦が終結するとベルギーは大戦への反省から1925年のロカルノ条約で永世中立を破棄し、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギーの間で承認されました。ロカルノ条約ではドイツ・フランス・ベルギーの領土の現状維持や紛争の平和的解決などが取り決められました。
しかし1936年にドイツがロカルノ条約を破棄するとベルギーはロカルノ条約から脱退し再び中立路線に戻ることを要求し、イギリス・フランスは1937年の英仏共同通牒でベルギーのイギリス・フランスに対する保障義務を解放し、事実上の中立路線回帰を承認しました。その一方でルクセンブルクは中立路線を破棄することはありませんでした。
ベルギー降伏後に回収されたベルギー軍の武器・車輌
第二次世界大戦によってその永世中立は完全に破られることとなった
そして1939年に第二次世界大戦が勃発し、再びフランスとドイツが交戦国となるとドイツはフランスを降伏に追い込むべく1940年5月10日にオランダ・ベルギー・ルクセンブルクに再び侵攻してその中立を侵害しました。ベルギーはドイツに降伏して領土の一部を奪われ、ルクセンブルクは占領下でドイツによる執拗な同化政策を受けました。
二度目の中立侵犯で甚大な被害を被った両国は第二次世界大戦終結後の1948年にイギリス・フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの五ヵ国でブリュッセル条約機構を結成し、中立路線を完全に破棄して集団安全保障体制による国防路線に切り替えることとなりました。ブリュッセル条約機構はアメリカなどの国々を交えて1949年の北大西洋条約機構(NATO)へと発展し、ベルギーのブリュッセルに本部が置かれるなどNATOとの関係も深いです。
また、非武装中立を掲げていたルクセンブルクでは徴兵制が導入され、1967年に徴兵制が廃止されて志願制に切り替えられた以降も現在に至るまで軍隊が存在し、現在陸軍939名(2018年)の兵力とルクセンブルク籍のNATO軍機から構成されています。その一方で1948年の一連の憲法改正作業によって永世中立条項は殆ど削除されましたが、現行ルクセンブルク憲法第10条には中立政策の文章が残っているため現在のルクセンブルクは「軍事同盟に加盟する永世中立国」状態となっております。
そして現在ベルギー・ルクセンブルクの他に長年両国の脅威であったフランス・ドイツもNATOに加盟しており、当分の間は両国がフランス・ドイツの侵略にさらされることはありません。
次回は第4番目の国家であるコスタリカの軍隊放棄と中立宣言について解説していこうと思います。それでは皆さんまた次回お会いしましょう!
【参考文献】
◎日本大百科全書
◎ベルギー基礎データ|外務省
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/belgium/data.html
◎ルクセンブルク基礎データ|外務省
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/luxembourg/data.html
◎和仁健太郎「伝統的中立制度の成立-18世紀末〜20世紀初頭における中立-」『国際関係論研究』2005 (24):29-57
◎木戸沙織「「三言語話者」と「三言語併用社会」 -ルクセンブルクにおける社会の単言語化と語学教育の課題-」『東北医科薬科大学教養教育関係論集』 2016 30:1-22
◎矢口啓明「ヨーロッパ協調とニコライ一世の外交政策 -ベルギー独立問題への対応から-」『東北アジア研究』2017 21:45-70
◎石津朋之「「シュリーフェン計画」論争をめぐる問題点」『戦史研究年報』2006 (9):89-117
◎若松新「欧艸における独立国としての小国の地位 -ルクセンブルクの言語、軍隊、通貨をめぐって-」『早稲田社会科学研究』1995 (51):147-197
◎田村幸策「日本をめぐる中立問題 -日本の安全保障との関連において-」『國士舘大學政經論叢』1969 (9):157-198
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