事件解説シリーズ 西サハラ問題#3 ~西サハラは誰のものか?~
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今回は事件解説シリーズ 西サハラ問題の第3回です。
前回: https://note.com/rekishinoakuma/n/n4ea2724d4419
西サハラは誰のものか?
スペイン撤退後のモロッコ・モーリタニアによる西サハラ分割
西サハラ北部はモロッコ・南部はモーリタニアが領有することとなった
マドリード三国協定によって西サハラ住民の意向を無視した形でモロッコ・モーリタニアによる西サハラ分割が合意されました。それに対しポリサリオ戦線はアルジェリアの支援の下で臨時政府を樹立しスペインによる分割容認を強く非難しました。
サハラ・アラブ民主共和国の国旗
ポリサリオ戦線はアルジェリアの支持の下でモロッコ・モーリタニアと衝突した
そうして1976年2月26日にスペインが西サハラから撤退し同年2月28日にモロッコ・モーリタニアによる分割統治が始まり、4月14日の西サハラ分割協定で両国の間で西サハラ北部3分の2をモロッコが南部3分の1をモーリタニアが領有することが合意され両国間での西サハラにおける国境画定がなされました。しかし、前日の2月27日にポリサリオ戦線はアルジェリアの都市ティンドゥフを拠点にサハラ・アラブ民主共和国(以下SADR)の樹立を宣言し、両国の分割支配に対する抵抗を開始し両国と武力衝突を引き起こしたのです。
1979年までの西サハラ紛争の対立構図
当時の対立構図はモロッコ・モーリタニア対SADR・アルジェリアといったものである
そうして成立したSADRを真っ先に承認し支援したのはアルジェリアでした。当時のアルジェリアはモロッコとの間に国境問題を抱えており、1972年の国境画定条約をモロッコが未承認であることに対する警戒とともにモロッコが西サハラに位置するブクラアの燐鉱山を獲得することによってモロッコの経済力の拡大にも危機感を抱いていました。こうした理由からアルジェリアはSADRを支援することによってモロッコを牽制しようとしましたが、その結果モロッコ・モーリタニアとの国交が断絶してしまいました。
1979年以降の西サハラ紛争の対立構図
モーリタニアの西サハラ撤退によってモロッコは単独でポリサリオ戦線と戦うこととなった
しかし、1978年になるとモロッコ・モーリタニア対SADR・アルジェリアの対立構図に大きな変化が生じました。7月19日にモーリタニアで軍事クーデターが発生し当時のダッタ政権が打倒され救国軍事委員会による政権が発足したのです。
モーリタニアは1979年8月5日にアルジェ和平協定でポリサリオ戦線と講和し、西サハラの領有を放棄し、さらに同年8月14日にアルジェリアと国交を回復しました。こうして西サハラ紛争からモーリタニアが撤退することとなりモーリタニアが領有を主張した西サハラ南部は空白地帯となりましたが、モロッコは武力衝突を継続し南部を含む西サハラ全土の領有を主張しかつてのモーリタニアの領域まで占拠したのです。
こうして1979年以降の西サハラ紛争はモロッコ対SADRの対立構造に移り変わっていきましたが、1980年代になるとモロッコは対外関係で孤立していくこととなるのです。
次回はモロッコの対外孤立と停戦合意について解説していきたいと思います。それでは皆さん次回お会いしましょう!
【参考文献】
◎中山雅司「西サハラ問題と国連による解決」
『創価大学比較文化研究』1992(9):109-150
◎部谷由佳「西サハラの変容と国際社会 –アフリカ最後の「植民地」の自立と共存に向けて-」
『アジア文化社会研究』2011(12):59-80
◎浦野起央「アフリカにおける国境問題とアフリカ連合の国境計画」
『政経研究』2018 54(4):81-127(499-545)
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