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「茶人 井伊直弼」(数寄語り 2020.7.8)

毎週水曜、レキシズルで開催される15分歴史ブレゼン数寄語り。
今回のプレゼンターは自身も茶道の手習いをしている”うじまっちゃくん”
”茶人”としての井伊直弼という、元来のイメージとは違う一面を
語ってくれました。

井伊直弼といえば
・彦根30万石の第15代藩主
・幕末の大老
・安政の大獄を実施、日米修好通商条約を結んだ
という、暴君、悪人として描かれることが多い人。

彼は13代藩主の十四男として誕生。
生まれた時、父はすでに隠居しており、城内の欅御殿で両親のもと育った。

彦根藩は文武芸に秀でた人物が重用される家風だったため、
彼も居合、和歌、能、茶などを学びながら育った。

17歳の時には、すでに両親も他界し、気持ち的は天涯孤独。
20歳でようやく養子の話が持ち上がり、弟とともに江戸に行くも、
弟が養子に決まり、いわば売れ残った直弼は失意のうちに帰国。

頭が良すぎる、顔が怖かったから、とも。
家臣たちは不憫に思い涙したという。

帰国後、達観したように住まいを”埋木舎(うもれぎのや)”と名付け、
石州流という武家の茶道を、江戸の先生と文通しながら学んだり、
居合の流派を自ら立ち上げたり、和歌の本を作るなど
文武芸に磨きをかけていった。

そして、22歳からの10年間で、3冊の茶書を執筆。
その中の一つ「茶道と政道」の中で彼は、
・茶を学ぶことは天下静謐につながる、としながらも
・茶をもって政治に関わることはよくない、とも書き、
他の書でも相反する思想がみられる。

茶道でも独自の一派を立ち上げ、
文武芸の道で一生を終えるかと思った彼に、
思いがけないことがおこる。

藩主を継ぐ立場の人が次々と亡くなり、
30歳代半ばで彦根藩主となったのだ。

しかし、彼は茶をやめることはせず、
藩主になってから開催した茶会を記録、
その数は9年間で224回にものぼる。

彦根と江戸で開催した茶会は、主に家族や家臣が参加。
当時、茶は外交手段となることが多く男性中心だったが、
妻、側室、奥女中など、多くの女性が参加したことが一番の特徴だ。

”一期一会”という有名な茶の言葉は、実は井伊直弼が作ったもので、
今も書籍としてある「茶湯一会集」にある。

つまり井伊直弼は、
「近現代の茶の礎を築いた人」なのだ。

わたしはある時、なぜか井伊直弼に強く惹かれて
彼が主人公の「花の生涯」という小説を読んだことがある。
これは第一回大河ドラマの原作でもある。

井伊直弼という人は、一つのものに打ち込むエネルギーが半端なく強く、
溢れ出るエネルギー量も多いと感じた。

プレゼンターは直弼の著作には矛盾が多いといっていたけど、
そのエネルギーを政治に傾けたくてもできなかったジレンマの表れでは、
とわたしは思う。

情熱的で一途。だからこそ全力で幕府を守ろうとしたが故の安政の大獄。
肯定できる政策ではないけど、井伊直弼を一個人としてみると、
安易に否定もできないよね、とも思うのだ。


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