黄門様が招いた悲劇「幕末の水戸藩TERAKOYA」(2018.2.10)

「幕末の水戸藩」をご存知だろうか。

ちょっと歴史に詳しければ
「桜田門外の変で井伊直弼を
暗殺したのって水戸浪士だったよね」
と思いつくでしょう。

でも、徳川御三家の水戸が、
なぜ幕府大老を暗殺したのか
不思議じゃないですか?

そんな複雑な幕末の水戸藩を
知ることができる
「幕末の水戸藩TERAKOYA」
に行ってきました。

水戸を貫く思想は「尊王敬幕」
天皇は主君
徳川は本家

徳川の親戚なのに、
主君は天皇と言い切る、
そんな過激な思想を堂々と掲げたのが、
水戸藩二代目の黄門様こと徳川光圀。

光圀は、天皇を中心とした歴史書
「大日本史」の編さんにとりかかります。

このために、湯水のようにお金を使う黄門様。

元々水戸は、ほかの御三家である
紀伊、尾張より石高が圧倒的に低く、
しかも将軍から
「天下の副将軍としてずっと江戸にいてね」
と言われ、殿様が単身赴任状態で
国元と二重の負担。

ビンボー、ビンボー、ビンボー!
最初から最後まで、貧乏な水戸藩。

貧乏が故に対立がおき、
「大日本史」の学者同士が対立し、
そして幕末、天皇側と幕府側で対立する。

その中で、黄門様の「尊王」を
もっとも純粋に引き継いだ若者たちが、
天皇をないがしろにするのは許さん!と、
「桜田門外の変」をおこし
「天狗党の乱」をおこし、
結果的に水戸は、暴走する暗殺集団という
イメージを持たれてしまう。

藩内は一つにまとまることなく、
時代に流されるまま実権を握った側が
反対勢力の両親、妻、子どもまで殺し、
さらに殺された側が復讐し、
気づけば3000人以上いた藩士が、
明治元年には800人余りになってしまう。

そのわずか15年前、
ペリー来航のころは、
「尊王攘夷のさきがけ」として、
吉田松陰や橋本左内、そして、西郷どんなど、
名だたる志士たちの尊敬を集めた水戸藩。

しかし、最後は藩内抗争で自滅してしまう。

「水戸っぽ」という言葉がある。
理屈っぽい・怒りっぽい・骨っぽいという
水戸人の気質をあらわした言葉だ。

黄門様が始めた「大日本史」が完成したのは、
なんと明治39年。

凄惨な藩内抗争を乗り越え、
最後まであきらめず、
黄門様の志を引き継いだ気骨ある「水戸っぽ」

水戸も会津も、本当に純粋で不器用。
でもね、立ち回りのうまい西国人より
やっぱり心惹かれちゃうんだよね。

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