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江戸から明治につながれたバトン「幕末伝習隊TERAKOYA」(2019.8.17)後編

▪︎第二部「大鳥圭介!」(つづき)
これからは蘭学よりも英語の時代。

大鳥圭介は、江川塾でジョン万次郎から英語を学ぶが、
「君に教えることはもうない」と言われ、
直接外国人から学ぶために横浜へ。

そこで、運命の出会いを果たす。
のちに、ともに函館で戦うことになる榎本武揚だ。

大鳥は、その優秀さから様々な藩からオファーを受けるが、
最終的に、幕臣に取り立てられる。

医者の息子から幕臣へ。
そして、同じく幕臣であった小栗上野介と出会うことになる。

この二人が出会ったことで、前編の話がようやくつながる。

農民を集めて結成された歩兵隊。
強い軍隊を作るためにフランスから直々に先生も呼んだ。
しかし、どうにも弱い。

西洋兵学者 大鳥圭介は、
「小栗さん、わたしにもやらせてほしい」と申し出る。

部隊は駕籠かき、馬の世話をする馬丁、火消しなど無頼者を集めて再結成、
大鳥自ら人一倍訓練に励んだ。

ここに「フランス人に伝え習う=伝習隊」が結成された。

鳥羽伏見の戦い。
数は多いが、薩長に押されまくる幕府軍の中で、
「伝習兵の働き、目を驚かすと云ふ」といわれ、
訓練によって鍛えられた力とフランス製シャスポー銃の威力を発揮する。

しかし、幕府は惨敗。
”錦の御旗”を振りかざす薩長軍を恐れ、
徳川慶喜は江戸に帰り、ひたすら恭順、
小栗上野介が説得するも、戦う意欲を失っていた。

江戸無血開城が実現し、幕府と戦う理由を失った
”薩摩の巨魁”は、会津に矛先を向ける。

大鳥は「戦は好まぬが、このままでは徳川は笑い者になる」
と江戸を脱出、続々と集まる旧幕府兵たちと合流する。
その中に、新選組副長 土方歳三の姿もあった。

集まった二千人の旧幕府兵。
伝習隊の現場トップであった大鳥圭介は総督になってほしいと請われる。
「実戦経験がない」と一度は拒むものの引き受け、
まずは日光で情勢を見極めようと北へ向かう。

大鳥のリーダー像をうかがわせるエピソードがある。

道中、とある村で休息をとっていたが、
兵が勝手に村人から酒を奪ったと聞き、
心から詫びを入れて酒代を支払った。

また、捕らえられたスパイに対し、
「お前が活躍するのはこれからだ」と逃した。

まっすぐで熱い男だったことがわかる。

北へ向かう伝習隊をはじめとした旧幕府軍。
次々と勝利し、薩長軍を恐れさせる。

先に進んでいた土方歳三を参謀とした隊が
宇都宮城を落とすも、薩長の援軍が きたと聞くやいなや
大鳥率いる隊はすぐに追いつき、見事な戦術で敵を阻む。

薩摩軍の中には、かつての教え子である大山弥助もおり、
「さすがは大鳥先生、もはやこれまで」とまで言わせる戦いぶりを示した。

「大鳥の命に従う武士は、身体手足のごとく。
神出鬼没の駆引で、敵の寄せ手を悩ませた」
というのが、大鳥の本当の姿だったのだ。

しかし、土方が負傷し劣勢の中、薩長の援軍が到着する知らせが届く。

大鳥は退路を開き、負傷兵を逃すため
「俺が殿(しんがり)を務める」と最後まで戦場に踏みとどまった。

その時の判断を部下は
「機を見て速やかに軍を引いたのは大鳥氏の正に神策だ」
と言っている。

▪︎第三部「生きる。」
大鳥は 明治以降、戦下手だという評判が広まっている。

理由の一つに、勝ったことは言わず、負けたことだけを話し、
ノートにも反省の言葉が並んでいることが挙げられる。

しかし、3000人の敵に対し800人で対抗し、
東北諸藩が次々と降伏、敗退し、行き場のなくなる中で
一旦は散り散りになった兵が大鳥の元に集まり、
榎本武揚とともに函館まで向かい、一緒に戦う。

戦下手の将に、そこまでついていく部下がいるだろうか。

現に、当時戦った薩摩人たちは、大鳥の作戦や戦いを賞賛し、
相当の劣勢でありながら、30余りの戦いで5割以上の勝利を収めている。

函館で土方を失い、これ以上の戦いは無理だと判断した大鳥は
「我らの命で兵たちを助けよう」と榎本たちを説得、
約一年半の戊辰戦争は終結する。

戦後、教え子である黒田了介によって赦免された大鳥は、
榎本とともに明治政府への出仕を打診され、
渋る榎本を説得し、日本のために働くことを決意する。

イギリスに渡った大鳥は百数十カ所もの工場を視察。
何もわからないだろうとイギリス人たちはノウハウを提供、
英語、化学に精通した大鳥はすべてを吸収し帰国した。

大鳥は現在の東大工学部校長、華族女学校校長、学習院院長を歴任、
津田梅子など次世代のリーダーを育てた。
さらに、朝鮮をめぐって対立していた清国との外交問題にも奔走した。

大鳥が仕えた工部省は、小栗上野介が描いた
「日本を木の国から鉄の国へ」を実現する場所だった。

彼や榎本が明治政府に出仕することで、
在野の幕臣たちも明治政府に仕える決心をする。

実に明治政府の3分の1は徳川の家来だったという。

徳川の人材があったからこそ、
徳川の資産があったからこそ、
江戸から明治が遮断されることなく、日本の土台が築かれた。

佐幕派プレゼンターの集大成。
”幕末の志士”に熱狂するのも悪くないとは思うけど、
徳川の人たちを知ることが、本当の日本を知ることにつながるんだと
熱い思いを持った夜なのでした。














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