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太平洋の架け橋となった、武士なき世の”志士”「新渡戸稲造TERAKOYA(2023.10.8)」

プレゼンターは、りょーうん。
彼の真骨頂は手紙や日記を通じて主人公と家族や友との物語を紡ぎ出すところだ。

今回の主人公は前の5000円札の肖像で「武士道」の作者、新渡戸稲造。
人格者と言われた彼はさらっと毒を吐く人だったそうな。


◆第1部 少年よ大志を抱け

庄内藩で生まれた稲造
祖父は金持ち、父はエリート
末っ子の彼は短気で喧嘩っ早い子どもだったそう。

彼が6歳の頃、時代は明治へと大きく動く。
故郷の盛岡は逆賊となり、学問で身を立てるべく東京へ。

当時の日本は西洋に追いつかんと技術重視。
武士のいない世になり儒教が廃れ、道徳教育は後回し。
立身出世に学問は必要とわかってはいるが、そのためだけの学問でいいのか?

東京大学予備門に入学しても先生にキレて殴りかかるような性格の稲造だったが、精神的な拠り所をキリスト教に求め、日本でのキリスト教普及について書いた論文がアメリカで高い評価を得る。

同じ頃、東北行幸をした明治天皇は祖父や父の開拓事業を讃え、志を継いで農業を励むべしとのお言葉を残す。

「アメリカ」「キリスト教」「農業」
この3つは稲造にとって大きなキーワードとなった。

その後、予備門を自主退学し、親友の内村鑑三、宮部金吾とともに札幌農学校に進学する。

ここから紆余曲折あり、彼はアメリカに渡ることになるのだが、背中を押してくれたのは、親友と農学校の恩師で日本大好きなアメリカ人教師、そして早くに父を亡くした彼をずっと支えてくれた男気のある叔父だった。

こんなエピソードが残っている。
農学校時代、9年ぶりに故郷に向かった稲造。
遠回りして旅行を楽しんだが故に、なんと母の臨終に間に合わず・・・。

親友の内村鑑三は悲しむ彼から手紙を受け取り、返事を書いた。
「いつも陽気な仲間たちも君の辛さを思って悲嘆にくれている、宮部は悲痛のあまり寝込んでしまった。食いしん坊だった奴は食事を拒否している。勉強熱心だった奴は呆然としているし、君の悲しみを思って黙想している奴もいる」

「兄弟よ、悲しみに囚われないでくれ。
僕たちは決して君のために祈ることを怠りはしない」

稲造は親友たちの気持ちに心を打たれる。

同時期に恩師から贈られた『衣装哲学』という本には
「どんな立派な思想も、どんな悩みも、行動を起こすことでしか解決できない。思い悩む前に身近な義務を果たせ」

復活した稲造。
いつしか「太平洋の架け橋になりたい」と大志を抱くようになる。
アメリカに想いを馳せる彼に、事業に失敗していたにも関わらず叔父は約2000万円の小切手を手渡し後押しをしてくれた。

充分とはいえない資金だったが、決死の思いで渡米することを友への手紙に書き、彼は旅立つ。

◆第2部 武士道

稲造の人生を見ていると、人種とか男女とか役職とかではなく、人を”人”として見ているフラットなところが凄いと感じる。

プレゼンターは
”武士亡き時代に志を抱いた紳士=志士”
と表現した。

まさに志士であり本物のジェントルマン。

のちに妻となるマリーは初対面で
「人生のパートナーは彼しかありえない!」と思ったそう。

日本に戻った稲造は多忙を極める。
札幌農学校の教師だけでなく、道庁職員、道内初の中学校や日本初の夜間学校の開校、農学校の学生に学費を支援したり一緒に野球をしたり。

『農学本論』という本まで書いちゃう。

ワーカホリック稲造。ついに重度の鬱病になりカリフォルニアに移住。
妻、看護師、おまけに娘のように可愛がっていた河井道という少女も連れて。

アメリカで慎ましく生きるキリスト教の一派、クエーカーと出会った彼は、禅の教えや武士のあり方に近いものを感じ、日本にも西洋に負けない道徳観念があることを伝えたいと思うようなる。

それが『武士道』

決して日本だけを称賛する本でなく、東西の思想文化をわかりやすく解説し、日本の武士道は西洋の騎士道と共通点が多くて凄いということを表した本だ。

「新渡戸は農業を捨てた」という人もいたが、彼はこう答えた
「農業を発展させる最終的な目的は、社会を豊かにすることにある。
私は最終的な目的を達成するために、人を育てているのだ」


◆第3部 その名さえ忘らるる日到るとも

晩年の稲造は、太平洋の架け橋になるべく尽力しつつも苦難に満ちたものだった。

新設された国際連盟のナンバー2としてフィンランドとスウェーデンの仲裁を行い、連盟を通じて締結されたヨーロッパ初の国際協定を実現し戦争を回避。

さらに”知的協力委員会”という国家間の思想や文化、知識を共有する組織を立ち上げる。
メンバーはキュリー夫人やアインシュタイン。
まさに太平洋の架け橋となることに直結したもの。

人嫌いで有名なキュリー夫人も稲造とは親しく、こんなやりとりが残っている。
「連盟の力で雨を止められませんか?戦争に比べれば朝飯前でしょう?」とキュリー夫人が無茶ぶりすると、
「連盟の仕事は戦争で起こる血の雨を止めることです。空の雨は科学者に任せましょう」と稲造。なかなか洒落てますね。

だが、世界は混沌としていく。
アメリカでの日本人移民排斥、日本での共産党員一斉検挙、中国への出兵、昭和恐々の発生・・・ついに日本は国際連盟脱退。

稲造は太平洋の架け橋となるべく行動し続けるも、日本でもアメリカでも避難される。
その状況で稲造は昭和天皇に呼ばれる。

陛下は言う「いま日本はアメリカと戦争になっては絶対にいけないと思う。
なんとか話し合いで戦争を食い止めてほしい」

稲造は感激し、国のため世界のために尽くすことを誓う。
71歳。彼は太平洋会議が行われるカナダ・バンフに向かう。

しかし演説を終えた稲造はホテルに帰り倒れ、帰らぬ人となる・・・。

敗戦後、マッカーサーは天皇をどうするかについて副官に助言を求めた。
日系二世の部隊に関与しクエーカーでもあった副官は、ある日本人女性に意見を聞く。
女性の名は河井道。稲造が娘のように可愛がった人だ。
彼女は「戦争は天皇の意に反して行われた。裁かれたら反乱が起こる」と言った。

稲造は自身の理想を達成することなく亡くなった。
だが、彼の功績は今も息づいている。
知的協力委員会はユネスコに、「武士道」は今も多くの人に読まれている。

稲造自身は、自分の名を残すことに全くと言っていいほど関心がなかったのではと思った。
国が、世界が、どうすれば平和で豊かになれるか。
それを”人”という単位でちゃんと捉えることができた人なんじゃないか。

人と人とが織りなす物語で伝えてくれたりょーうん先生のプレゼンだからこそ実感できたんだと思う。『武士道』、読んでみよう。

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