あの事件を忘れない「深川八幡祭り」(数寄語り 2020.7.22)
今回のプレゼンターは二本松さん、
ご両親が二本松出身がゆえについたニックネーム。
数寄語りではめずらしいテーマ、
「深川八幡祭り」を語ってくれました。
深川八幡祭りは、神田祭、山王祭と並ぶ江戸三大祭の一つで
「神輿深川 山車神田 だだっ広いのが山王様」と表現される。
ちなみに”だだっ広い”は赤坂から日本橋まで、
江戸の半分が氏子という範囲の広さを表現したもの。
深川八幡祭り、まずは基礎知識から
・「深川の八幡様」と地元では親しまれている富岡八幡宮の祭礼
・1642(寛永19)年に四代将軍家綱の成長祈願のために始まった祭
・深川とは現在の江東区の西半分のエリア
実は数年前、富岡八幡宮が全国区になってしまった事件があり
参拝客が激減、今も初詣でも並ばずに参拝できるそうな・・・
さて、気を取り直して本題に戻ると、
今の門前仲町駅を中心とする深川は、江戸とともに発展。
江戸時代初期は川向こうといわれ、ちょっと辺鄙な場所扱いだったが、
明暦の大火(1657年)以降に町人町、倉庫街として発展し、
祭りの人気も高まっていった。
「神輿深川」のイメージが定着したのは
1700年頃に紀伊国屋文左衛門が神輿三基を奉納したから。
彼は材木商として一代で財を成した大金持ちだ。
ちなみに同じ頃、二本松では三代藩主・丹羽長之が逝去したそう。
(二本松さんらしい情報ですが地味・・・)
さて、深川八幡祭りには、今も語り継がれる大事件がある。
「永代橋崩落事件」だ。
12年ぶりに神輿渡御が行われるということで、
江戸市民たちが永代橋に殺到。
記録に残る老中への報告では440人が溺死、
他にも行方不明者あわせ2000〜3000人が亡くなったともいわれ、
今も供養塔が残る。
大田南畝(なんぼ)の
「永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」
という、うまいけど笑えない狂歌が残っている。
他にも歌舞伎、落語にもなり、
江戸市民にとっていかに衝撃的だったかが伺える。
永代橋崩落事件をきっかけに神輿渡御は中止、
再開されたのは戊辰戦争の翌年(1869年)、明治時代に入ってからだ。
こうして紆余曲折あった深川八幡祭りだが、
・3年に一度の本祭りでは神輿連合渡御として53基の神輿が深川を練り歩く
・各神輿が永代橋を渡る際は、永代橋崩落で亡くなった人々を追悼するため「差し切り」を披露
・見物人含めて20〜30万人が参加し「神輿深川」を今に伝えている
永代橋崩落事件を忘れず、犠牲者とともにあるというメッセージを感じる
差し切りのシーンが一番好き、とプレゼンターは言う。
また、深川の住民として祭りに参加しているプレゼンターは、
神様や神聖なものに触れているようで熱い気持ちになるという。
深川八幡祭りは”水かけ祭り”ともいわれ、
皆がびしょ濡れになって楽しむ祭りでもある。
今年は本祭りの年だったが、来年に延期されたそう。
来年、みんなで楽しめるといいなと思いながら
語りは締めくくられた。
※TOP画像:富岡八幡宮HPより
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