スクリーンショット_2020-03-04_17.09.39

君たちはどう生きるか「三島由紀夫TERAKOYA」(2020.2.15)

昭和45年11月25日 午後12時
自衛隊市ヶ谷駐屯地

バルコニーで演説を始める、ひとりの男。

男は叫ぶように訴えかける。
だが、その声は自衛隊員たちのヤジにかき消されんばかりだ。

それでも男は続ける。
「諸君らは武士だろう!
どうして自分を否定する憲法を守ろうとするんだ!」

スクリーンショット 2020-03-04 16.11.03

三島由紀夫に対してほとんどの人が持つイメージといえば
変わった軍服で叫びながら、昭和なのに切腹した危ない人、
なのではないだろうか。

それをプレゼンターかもめはポップに語るという
なぜ彼は三島由紀夫に興味を持ったのか。

「それなりに、覚悟はしてきましたよね?」
かもめからのメッセージにちょっと戸惑いながら、
三島を知ることにしよう。

三島由紀夫は小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家
としてマルチに活躍。

「仮面の告白」
「潮騒」
「金閣寺」
などの有名な作品を残している。

1925年生まれ、翌年が昭和元年のため、
昭和の年数=三島の年齢と見ていくことができる。

”あの事件”で自決したのが1970年(昭和45年)なので、
今年は没後50年ということになる。

同い年で存命なのが「渡る世間は鬼ばかり」で有名な
脚本家・橋田壽賀子、御年95歳。
同年代には作家・司馬遼太郎(1923〜1996年)がいる。

三島はおぼっちゃんでエリートだ。

学習院初等科〜高等科
高等科を主席で卒業、天皇陛下から銀時計をもらう。
推薦で東大法学部に入学し大蔵省に入省。

作家としては
「早熟の天才」「知の巨人」「美の追求者」
ともてはやされた。

が、この人、写真を撮られるとこんな感じになる。

スクリーンショット 2020-03-04 16.15.09

サンダルに決めポーズでなんか変・・・

服がダサい、運動音痴、超不器用
そのくせ自分でカッコイイと思ってる。

友人いわく
『坊ちゃん育ちで容量が悪く
ここぞという時の行動に機敏さが欠けていて
そのくせつまらないことにプライドを感じ
周りに迷惑をかける』

頭脳明晰、クソまじめ、ストイック
なのに他人を信じやすく騙されやすい。

そんな”ダサ可愛い”人なのだ。

▪︎第1部 序 
プレゼンターかもめは、なぜ三島由紀夫に興味を持ったのか。

彼はおじいちゃんから
「わしは、天ちゃんに戦争に行かされたんだよ」
と聞かされ、
「日本は悪いことをした。だから謝罪しないと」
といういわゆる自虐史観を持ち続けていた。

が、三島の亡くなった年に生まれ、
もうすぐ50歳になるという頃になって、
”徴用工問題”やら”従軍慰安婦問題”やら、
過去の戦争責任を問われる政治問題に目を背けていてよいのか
疑問を持つようになる。

そんなとき、
「そういや昔、日本とか天皇とか叫んでた人いたな・・・」
と、三島由紀夫という存在を思い出す。

そして、自分と三島の共通点に気づく
「この世には光と闇がある」という考えである。

たとえば、死を意識すると逆に精一杯生きようと思うというような、
闇を意識すると光が見え、光を意識すると闇が見えるという”二元論”だ。

三島は「太陽と鉄」という自伝的随筆について
『私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなもの』
と語っている。

三島由紀夫ってなんだ?
そこからプレゼンターかもめの三島探求が始まった。

▪︎第2部 破「頭と心」
三島は41歳の頃のインタビューで、
「ハタチで迎えた終戦が自分の人生の分岐点」
と語っている。

まずは、終戦までの20年の人生を見ていこう。

彼が強く影響を受けた人物が二人がいる。
そのうちの一人が祖母だ。

三島の本名は平岡公威(きみたけ)

祖父も父も東大から官僚のエリート一家だが、
祖父が人に騙され借金をつくり、借家暮らしの貧乏だった。

祖母のなつは、
父方の祖父が幕末の決戦地、箱館まで戦った
旗本・函館奉行の永井尚志
母方の祖父が常陸国宍戸藩主(水戸藩分家)の松平頼位 

12〜17歳(結婚)まで有栖川宮熾仁親王の屋敷で行儀見習いをした人で
プライドが高く、おまけに癇癪持ち(ヒステリー)だった。

生後49日目の公威ちゃんを両親から取り上げ手元で育て、
自分が選んだ3人の女の子とだけ家の中で遊ばせ、
坐骨神経痛で振動で痛みがくるため物音を立てるのはダメ。

「病気と老いの臭いのむせる祖母の病室」
「まるで座敷牢に入れられていた」
環境で12歳までを過ごした。

反面、教養高い祖母は古典をたくさん読ませ、
歌舞伎や能にも触れさせたことで
作家、劇作家の下地ができた時期でもあった。

病弱で家の中で過保護に育ち
「本の中から学び、実感、体感を得ず、
空想して言葉で理解する」
そんな公威少年が15歳で書いた詩がある。

それでも光は照ってくる
ひとびとは日を賛美する
わたしは暗い坑(あな)の中
陽を避け 魂を投げいだす

早熟で、そして暗い・・・

16歳で短編小説「花ざかりの森」を執筆。

驚いた国語の清水先生は、自身が参加する文芸誌「文藝文化」
の創刊者に作品を見せる。

それが三島に影響を与えた二人目、
蓮田善明(はずだぜんめい)だ。

三島は蓮田から
「一種の感情教育を受けた」と言っている。

三島由紀夫というペンネームは、
蓮田ら文藝文化のメンバーが名付けたものだ。

昭和16年12月8日、日米開戦。
三島は当時のほとんどがそうだったように、純粋な軍国少年だった。

昭和18年、蓮田善明に召集令状が届く。

蓮田は三島少年に
「日本のあとのことはおまえに託した」
という言葉を残し、出征する。

その言葉の意味を
「四十歳に近く、氏の享年に徐々に近づくにつれて」
わかってきたと三島は言っている。

昭和20年、三島にも召集令状が届く。
決意した彼は父母妹弟に達筆な遺言状を残し、入隊検査に臨む。

スクリーンショット 2020-03-04 16.44.07

ところが、胸膜炎と診断され入隊を免れる。
前日から熱を出したことによる、若い軍医の誤診だった。

三島に影響を与えた蓮田善明は、連戦連勝の部隊に所属し
ジョホールバルで終戦を迎える。

が、敗戦の責任は天皇にあると急に変節した連隊長を拳銃で射殺、
自らも拳銃で自殺した。

「生きて帰ろうと死んで帰ろうと
我々は日本精神だけは断じて忘れてはならん」

蓮田善明、享年41

「特攻隊に入りたかった・・・」
死を覚悟したのに生き残ってしまった複雑な思いを抱え、
三島はハタチで終戦を迎える。

所属予定の部隊はフィリピンに派遣、ほぼ玉砕だったという。

▪︎第3部 急「生から死へ」
三島は41歳のインタビューで、
今の時代を”死が生の前提になっているという緊張した状態ではない”
と言い、

「自分のためだけに生きようというのはいやしい
自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬほど
人間は強くない」と語っている。

これはつまり、
「自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬほど
三島由紀夫は強くない」ということだ。

ここから三島の
”生きるため、死ぬための大義をみつける旅”が始まる。

時代はさかのぼり、三島24歳。
作家になることを反対した父の意向で大蔵省に就職するも
9ヶ月で退職、
作家生命をかけた長編小説『仮面の告白』を書き上げる。

病弱でひ弱な三島にとって、太陽は負のイメージだった。

それを払拭したのは、朝日新聞の特別特派員として行った
半年間の世界旅行だった。

GHQ占領下での異例の船旅で
「太陽、太陽、完全な太陽!」と叫び、
”太陽との和解”を果たした三島。

日がな一日、日光浴をしながら「自分の改造」というものを考え始めていた。

この旅で夢中になった国、ギリシャに触発され書いたのが
大自然と青春をテーマにした小説「潮騒」

山口百恵をはじめ、時のアイドルを主演にするなど
5回も映画化された大ベストセラーだ。

30歳になった三島は、ついに自分の肉体改造に着手する。

が、水泳はどうにかマスターするが
ボクシングは友人に諦めるよう説得されるありさま。

その中で見つけたのが”ボディビル”だった。

始めた当初はガリガリ43キロ・・・

スクリーンショット 2020-03-04 16.47.55


ストイックな彼は、週3回の筋トレを14年間、
男性ホルモンも爆発して胸毛がすごい状態になるまで続けるドMっぷり。

スクリーンショット 2020-03-04 16.49.47

昭和31年に発表した小説は軒並み大ヒット
美徳のよろめき 30万部
永すぎた春 15万部
金閣寺 15万部

当時”よろめき夫人”というトレンドワードまでできるほどの人気で
「若き文豪」「世界的文学者」と絶賛された。

有り余る”文”才と欠けていた”武”を肉体改造で手に入れ、
文武両道という理想を実現した三島。

そろそろ結婚したい!と思うようになり
「丸顔でかわいい、ハイヒールでも自分より背が低くて、
両親を大事にして・・・」などなど。
当時の男性なら、だれもが持っていたであろう希望を実現し
33歳で21歳の理想の女性とお見合い結婚する。

スクリーンショット 2020-03-04 16.51.39

そんな由紀夫のトンデモ三部作なるものがある
映画と写真集だ。

スクリーンショット 2020-03-04 16.52.42


「からっ風野郎」のすばらしき大根役者ぶりを見たい方はぜひ。

乗りに乗っていたはずの三島だが、その後発表した作品は
「鏡子の家」(昭和34年) 
→評論家大不評
「宴のあと」(昭和35年) 
→モデルとなった人から訴訟を起こされる(日本初のプライバシー訴訟)
という不運に見舞われる。

そして、
「十日の菊」(戯曲 昭和36年)
「憂国」(小説 昭和35年 映画 昭和41年)
「英霊の聲」(小説 昭和41年)

という「二・二六事件 三部作」と言われる作品を発表した頃から
三島の中で何かが変わり始める。

昭和41年
中国では文化大革命という共産党による暴力革命が起こり、
フランス、インド、ネパール、カンボジア、アメリカ、ペルーにも波及
日本でも学生運動に影響を与えた。

三島が愛する美しい日本が壊れる、日本が危ない・・・

昭和45年の市ヶ谷駐屯地での演説で
「俺は、四年待ったんだ
俺は、四年待ったんだよ」と三島は叫んでいた。

海外で高い評価を得た「憂国」の映画化
「英霊の聲」の発表はともに昭和41年
そして、蓮田善明が亡くなったのは41歳

昭和41年は三島が「日本を託された者の覚悟」を決めた
ターニングポイントだった。

昭和42年
作家仲間とともに「文化大革命関する抗議声明」発表
自衛隊体験入隊

昭和43年
共産主義に反対する学生100名を集め
民間防衛組織「楯の会」結成

スクリーンショット 2020-03-04 16.57.16

世間からは”おもちゃの兵隊”と小馬鹿にされ、
再軍備だとバッシングされるも信念を貫く
制服など、費用はすべて三島が負担した。

昭和43年に発表した「文化防衛論」は
三島由紀夫なりの天皇論だ。

超難解な内容だが、プレゼンターの超訳によると

「それを失えば日本が日本でなくなる」というものを守る
それとは「文化」
文化とは、「日本の伝統」「日本人が正しいと考えるもの」
「日本人が立派だと思うもの」「日本人が美しいと思うもの」
その文化の象徴が、日本の歴史の中で連続している天皇
なので、天皇に忠誠を尽くし天皇を守る

”天皇”を持ち出されると、
抵抗感をもつ”戦後の日本人”は多いだろう。

高度経済成長によって日本文化が衰退していく・・・

日本を憂いた三島は訴える。

日本とは何だ?
いったい日本というのは経済繁栄だけの国なのか?
日本という国はもっと他の何者でもありうるのじゃないか?
自国の安全を他国にまかせ経済繁栄にうつつを抜かしてよいのか?
いったい自衛隊は何を守るのか?
平和憲法という偽善に魂を抜かれ自衛隊は何を守るというのだ?
アメリカから与えられた憲法を後生大事に守るのは怠慢ではないか?
自らの国を守る気概と機能を棚上げにされたままでよいのか?
このままで日本は本当によいのか?

三島由紀夫という人は
頭脳明晰で、クソまじめで、ストイックで、超不器用。

不器用な人が真剣に事を起こそうと思えば、
周囲の人からみれば”狂気の沙汰”と見えてもしかたない。

吉田松陰がそうであったように、幕末も同様だ。

昭和45年11月25日 午後12時

三島由紀夫、
他「楯の会」メンバー四名
その思想を完結すべく、
憲法改正のため自衛隊決起を呼びかけ、のち自決。

当時の首相も知識人も冷淡な反応を示す。

同年代の作家・司馬遼太郎は毎日新聞に
「異常な三島事件に接して」と題し
三島の死は政治的に何の影響を及ぼさない、
それこそが日本社会の健康さをあらわすもの、と書いた。

三島とともに事件を起こした楯の会のメンバー三名は
犯罪者として逮捕、裁判にかけられる。

第十七回公判の検察側の求刑は懲役五年
第十八回判決公判での判決は懲役四年
一年減刑された

量刑の事情について述べた裁判長の言葉がしみる
人として三人と向き合い、三島と向き合い、
三島が事件を起こすに至った国政への真っ当な批判もあり、
長文のため省略するが、裁判官の良心を感じることができる文章だった。

なぜ三島は死んだのか?
その質問に瑤子夫人は
「死にたかったから、死んだのよ」と答えた。

三島を最も理解していたのは、
一番身近にいた妻・瑤子だった

▪︎プロローグ
三島由紀夫と司馬遼太郎
思想を突き詰めた三島
思想を遠ざけた司馬

正反対の二人は、ともに未来の日本を憂いていた
預言者だった。

「日本人とはなにか」

三島の思想は「右翼」と言われることもあるけど、
戦後、日本を嫌う日本人、天皇を否定する左に傾いたものを
揺り戻そうとしたのではないか。

「日本人とはなにか」を考え
それぞれの良心、大義、武士道に従って「どう生きるか」

”あの事件”はそれを問うものだったのではないかと思う

ベストセラーのタイトルじゃないけど
「君たちはどう生きるか」
と三島に言われた気持ちになる夜だった。

出会わせてくれたプレゼンターに感謝。

スクリーンショット 2020-03-04 17.07.41


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?